サドを語る・バックナンバー1

1997年4月20日〜5月30日



[No:11][Zappie ASANO]  [97/4/20  2:47:51] [Comment Number-なし] [http://www.jah.or.jp/~piza/]
このページでは貴方のサド侯爵に関する自由な意見を展開して下さい。
難しいことでなくとも、自分の主観的な思い入れや、作品の感想、この
ホームページへの意見、批判、その他何でも受け付けております。
ふるってご参加ください。

[No:12][まりお]  [97/4/20  12:59:13] [http://www.voicenet.com/~mario/]
「美徳の不幸」と「悪徳の栄え」の好対象がたまらないです。
ユーモラスなところに救いがございますね。読み直しましょうね。
随分と以前に読んだきりだから... ブタの映画も、休みになった
ら、きっと観ます。掲示板おめでとうございます。

[No:14][ザッピー浅野]  [97/4/22  1:1:18] [Comment Number-12] [http://www.jah.or.jp/~piza/]
早速掲示板のご使用ありがとうございます。
「美徳の不幸」と「悪徳の栄え」の好対象もよいですが、「アリーヌと
ヴァルクール」のようなサドの公の作家としての作品群との比較対象も
面白いでしょう。
豚のサドの映画(MARQUIS)も、感想楽しみにしております。
その他、ロジェ・ヴァディムの「悪徳の栄え」や、ウド・キエール主演
の「サド侯爵」など、「MARQUISMEDIA」のコーナーでとりあげていない
サド侯爵の映画がまだ色々ありますので、もし見た方がいらっしゃいま
したら、感想を送っていただけると嬉しく思います。

[No:21][Aya]  [97/4/30  16:48:43] 
こんにちは。
さて、私はロジェ・バディムの
「悪徳の栄え」を見ました。が、
しょーもない!!! はっきり
いってしょーもないです。ナチ
スドイツの占領下で、美人の
姉妹が、姉は将校の愛人にな
ってナチスに荷担し(これがジ
ュリエット)、妹は抵抗しながら
も捕らえられて(これがジュス
ティーヌ)、最終的には二人と
も死んでしまう、という、なんと
も取ってつけたような内容でし
た。某映画館でのリバイヴァル
上映で三年ほど前に見たので
すが、終った瞬間に「金返せー
!」と、はしたなくも叫びたくなっ
てしまいました。もっともこの映
画、故三島由紀夫氏は、お気に
入りだったらしいのですが、なん
だかなー、という感じです。
サドの作品中に出てくる「狂気」
は、純然たる狂気として、そこに
存在しますよね。ですが、あの映
画は狂気の発生を「戦時下・ナチ
ス」という、そもそも尋常ではない
空間に設定してしまっていたので
す(戦争のような異常事態だった
ら、だれしもが狂気となる可能性
があるわけですよね)。つまり、狂
気のいいわけに戦争を、ナチスを
利用した、というふうに、私には思
えたのです。他のサドに関する映
画を知りませんので、なんですが、
ともかく、あれは面白くないです。

[No:22][みき]  [97/5/10  1:34:38]  
こんにちは。みき、こと中村実生雄です。ご無沙汰しております。
Ayaさんのメッセージを見て、ちょっと気になって投稿しました。
ロジェ・バディムの「悪徳の栄え」は私は見ておりませんが、かつて「血と薔薇」「バーバレラ」などは好きな映画でした。
 別にバディムの擁護をするわけではありませんが、欧米の映画の中には、退廃的な映画を描くのに、ナチスを背景にするというのが一つの手法としてあるように思います。映画が作られた時代、国などの 要素を加味して味わえば、また違った見方もできるのではないでしょうか。
 ちなみに私はつい最近、パゾリーニの「ソドムの市」を見ました。
もちろん、サドの「ソドム120日」が原作ですが、この映画も、第二次大戦の戦時下(場所はイタリアですが)を時代背景にして描いています。しかし、戦時下が意識されることはあまりなく、まったくもって悪徳にまみれた映画といっていいでしょう。もしまだご覧になっていなければ、お口直しにご覧になってみてはいかがでしょうか。
 余談ですが、随分昔に映画館で、この映画の予告編を見たときにはフランス語だったような記憶がありますが、私が見たビデオは英語でした。75年/イタリア製作なので元はイタリア語だったのでしょうが、できればイタリア語かフランス語で見たかった気がします(もちろん日本語スーパー付きで)。

[No:24][Aya]  [97/5/11  3:53:52]
みきさん、私の感想を読んでくださったんですね。ありがとうございました。
ちょっと私も言葉足らずだったので、誤解を与えてしまった部分があるのではないか、ということで、一言付け加えさせていただきます。
確かに私のコメントは、狂気が発生する舞台を、ナチスドイツにおいたことへの批判として読めますでが、けっしてそれだけが言いたかった訳ではないのです。
サドの思想の根本にあるのは「理念の対立」(ex.美徳vs悪徳)だというふうに思うのですが、それを二人の、資質の違う姉妹のそれぞれにおきかえた構図そのものが、もはや失敗であったということが、最大の批判点なのです。
というよりも、あの映画がサドの思想とはまったく関係なく、単に、ジュスティーヌ役のドヌーヴを、いかに「きれいに」「美しく」見せるか、というところに監督の意図があったとしか思えないんですよねー。それはやっぱり、見ているこっちは面白くないんじゃないか、と。

[No:26][Zappie Asano]  [97/5/13  22:46:15] [Comment Number-22] [http://www.jah.or.jp/~piza/]
みきさんの言うとおり、確かにナチスはヨーロッパのこのテの映画の定番のシチュエーションですね。サドの文学の狂気も、その根源をたどれば彼を迫害したフランスの社会や宗教文化に向けられたものなわけですし、そういう点で国家の狂気を皮肉ったものとしては、「ソドムの120日」の映画化ならナチスでもいいような気がします。それにパゾリーニは思想的にもナチスを批判するだけの基盤があったわけですし。
しかしこれが、監督が単なる耽美主義のロジェ・ヴァディムで、原作が「悪徳の栄え」となると、やはりAyaさんの言うとおり具合はよくないも知れません。第一ナチスでは、現実的すぎてピカレスク・ロマンの魅力もあったもんじゃない。ま、僕は本編は見ていないので何とも言えませんが、思想的にはパゾリーニの映画の方がしっくりくるものであることは明白だと言えるでしょう。百歩譲って、「バーバレラ」がSFデカダンスの傑作だったとしてもです。
ヴァディムだったらせいぜい、「恋の罪」かなんかからありきたりな短編をあてすっぽに選んで、お得意の映像的自慰行為の餌にするぐらいが関の山でしょう。
ちなみに「ソドムの市」の言語問題ですが、僕が昔アメリカの裏ルートで入手したビデオはイタリア語に英語の字幕がついています。パリの劇場で見たときも確かイタリア語でしゃべってたような気がしますね。どっちにしろ、オリジナルはイタリア語でしょう。この映画はサドの映画というよりパゾリーニの映画という印象が強いので、やはりイタリア語でばっちりじゃないでしょうか。

P.S.「ソドムの市」で口直しも結構ですが、その後で別の意味で口直しが必要になったりするのでお気を付けください。(勿論アナタがス○○ロ趣味をお持ちでないという前提で)

[No:27][ヘルカッツェ]  [97/5/14  13:31:59]  
こんにちは。はじめてお便りします。実はあちゃらなびで「ナチス」で
検索したところ、こちらのページに漂着してしまいました。「ナチス」とは
かんけいないぞよ、と思いつつ探索しておると、(私もサドは結構好きなので)そうか、この掲示板にナチが舞台の映画の感想があったわけですね。
なんでもセクシャルで退廃的なものを「ナチ」にからめるのは、三流映画
じゃないでしょうか。(『愛の嵐』とか、『地獄に堕ちた亡者ども』など、
私にははっきり言って意味不明なんですが。)
ワグネリアンであったり、ナチ軍服の愛好者だったりと「三島」や「ヴィスコンティー」とフィールドが重なる私ですが、どうも彼らのアプローチは
気に入りません。渋澤もです。
誰か、純粋に文学的意味でサドが好きな人、いませんか。他にはアポリネールなんかも好きです。それからみなさん、マゾッホは興味ありませんか?

[No:28][Aya]  [97/5/15  0:37:10]
こんばんわ。なんかとっても面白い発言があったので、おもわず書きたくなってしまいました。
ヘルカッツェさん、とても楽しい方ですね(べつにちゃかしているわけではありません)。ぜひ「ワグネリアンである」「ナチ軍服の愛好者である」というカテゴリーと、サドの思想がどのように融合/反発するのかをおうかがいしたいです。
別に三島や澁澤のアプローチが嫌いだというのは、問題発言でもなんでもなく(かれらの存在は完全に功罪相半ばですから)、当然のこととして受け取りました。
あなたがおっしゃる「純粋に文学的な意味」の内実が、知りたい気がします。私はアポリネールもマゾッホも一通りは読んでおりますので、(たとえ共有はできなかったとしても)なにかがつかめるかもしれません。

[No:29][ヘルカッツェ]  [97/5/15  11:19:45]  
 Avaさん。私のコメントにお返事をくださってありがとうございます。
 今までのこの掲示板で話し合われた映画にもあるように、「那智」・・・じゃなかった「ナチ」は「セクシュアルなもの」「退廃的なもの」「サドマゾ的なもの」に非常に結びつけられやすいことは確かです。
 純粋に文学的な、という意味は「渋澤ファンクラブでない」という意味です。ちょっと、渋澤の解釈は私には?な面があります。まあ、ジル・ド・レエもルートヴィヒU世もほとんど知られていなかった時代の「啓蒙書」とし
ては評価できますが。
 マゾッホは、実は読んだことがないのです。サドは最近たくさん出回る
ようになりましたが、マゾッホの小説は見たことがありません。(確か、
「毛皮を着たヴィーナス」は文庫本で出ていましたよね。ご感想やその他の
本の入手先をお教えいただけたら幸いです。
 アポリネールは好きですね。SF的です。

[No:30][Aya]  [97/5/15  22:34:1]
こんばんわ、ヘルカッツェさん。どうもわざわざありがとうございました。
さて、マゾッホですが、河出文庫から「毛皮を来たヴィーナス」が種村訳で出ております。絶版にはなっていないはずですので、どこででも入手できるはずです。
さて、マゾッホの小説ですが、個人的にはサドの方が面白いと思いました。(言ってしまえば)谷崎潤一郎の西洋版といった感じを受けました。サドの方があきらかに壮大かつ理性的な狂気にみちていると思います。
ただ、精神分析学でも言われているとおり、両者はそれぞれ単独では存在し得ないものです。ヘーゲルの「主人と奴隷」の図式そのままに、サディストはマゾヒストなしには存在し得ない。その逆もまたしかり、ということです。ですから、一読の価値はあると思います。
あなたがマゾッホの世界に美を見出したら、つぎはやっぱり団鬼六か沼正三を読まれるのをお薦めしたいと思います。
澁澤のサド解釈に対する反感/異論は、最近あちこちで見られますね。もっともだと納得する部分が多い指摘もあります。先駆者としての彼の存在が大きかったのは、れっきとした事実です。だからといってその一点のみで評価してしまう(それだけで盲信してしまう)のは、はっきりいって意味のないことです。私は全く別の意味で澁澤に興味を持っていますが、そういったいわゆる「澁澤マニア」が多いことには、多少なりとも(というよりも多分に)辟易している部分が大です。
なんか、とりとめもなくてすいませんが、あいかわらず面白かったので、書かせて頂きました。
では、また。

PS ナチス関係のページなんてあるんですねー。なにやってるんでしょうか、皆さん。

[No:33][ザッピー浅野]  [97/5/16  23:12:33] [Comment Number-30] [http://www.jah.or.jp/~piza/]
マゾッホはすごく面白かったけど、「毛皮を着たヴィーナス」だけ読めば十分でしょう。文学としてはサドと比べる様なものではないと思いますが・・・。デルーズの「マゾッホとサド」(MARQUISMEDIAに掲載)の様な比べ方ならいざ知らず。
Ayaさんの言う谷崎みたいというのは一理あります。描写がきれいで耽美的で、あとテーマ的にも(マゾ男)。ちなみに沼正三、団鬼六が出ましたね、ついに。僕は「ヤプー」の一巻くらいしか読んでないのですが、もし詳しいのでしたら色々教えて下さい。

ちなみに早速ナチ関係のページを検索してみましたが、「ナチマニア」は見付からなかったけど、併発的に無茶苦茶アブナイページをいっぱい見つけてしまった。やっぱりはまり過ぎるとアブナイですね、ヒッちゃん関係は。アブナイところから入っていって、はまればはまるほど真面目になってゆく「サドマニア」の世界とは対を成すところと言えましょう。
それからナチ映画ですね。ヨーロッパでは日本と違って文化的なバックグラウンドがあるので、どれだけ精神の深いところから来たテーマ性なのかは何とも言えないですが、確かにナチばかりってのも安易な気はします。

ちょっと遅れましたが 「純粋に文学的に」発言について。
「サドマニア」は真面目なサドの研究書の様な場ではできないバラエティな側面からサド侯爵を追求するという特色を持ったホームページですんで、映画の話があったり、娯楽小説の紹介があったり、チャットでは全く関係ない下らない雑談が展開していたりするんですが、しかし、確かにそういったサブ・カルチャー的な方面に片より過ぎている感はあります。
僕も本質的にはサドの文学に興味がある訳だし、それに他のみんなも基本的にはそうなのでしょう。映画の話しもいいですけどね、映画好きだし。ナチや他のアブナイ文学の話しも。
このコーナーは、掲示板を設置する前(旧サドを語る)は、「澁澤氏のサド観」など、文学・哲学系のちゃんとした議論がささやかながら展開しておりました。よろしければ一度バックナンバーをお読みになって、そちらの方に対する意見もどんどん書き込みしてくれるとバランスがいいかも知れません。(ま、一部の賢者達を除いて大した意見はありませんが)

思いのほかアンチ澁澤的風潮は高まっているらしいです。
自分の主観をちょっと言わせてもらいますと、僕も正直言って澁澤氏は余り好印象を持っていなかったんのです。でも「サドマニア」を制作している以上、どうしても避け難い概念ではあるし、それで氏の書いたものを最近になって改めて読むようになって、ある程度考え直した部分があるわけです。「サド侯爵の生涯」や「サド裁判」などを読むと、澁澤氏のサド観は確かに偏ったところはあります。しかしそれは、澁澤氏という人物そのものが偏った資質を持った方だからで、純粋にサド文学の哲学の解釈を語らせたら彼は決して間違ったことは言っていないように判断します。一度「サド復活」を読んでみましょう。
それに、氏のサド論の内容云々を抜きにしても、Ayaさんの言うように先駆者としてサドを日本に普及させた偉業は紛れもないことですね。

アポリネールですか。昔「一万一千本の鞭」を原書で読んで感銘を受けたことがあります。あれは冗談みたいな傑作でした。僕はあいにく詩を読む感性を持っていないので、そちらの方は良く解りませんが。

[No:34][Aya]  [97/5/19  0:24:19]
沼正三の「家畜人ヤプー」は傑作。実に面白いです。基本的には「ガリバー旅行記」のパロディであり、現存する世界に対するパロディだと言えます。ですが、そのパロディの方法がなかなかです。もっとも途中で気分が悪くなる可能性もあるのですが。
団鬼六は、沼にくらべれば落ちるような気がします。単なるポルノ小説ですね、はっきりいって。もっとも読む人がマゾヒストであったり、「縛り」などに美を感じる方であれば、よいかもしれません。
私の偏見ですが、どうも作品としてはマゾヒストのものよりもサディストのもののほうが面白いと思います。サディストのほうが、世界を冷静に見る必要があるし、実際に見ているからではないかと思います。自分がなにをしているかを冷静に判断していたら、とてもじゃないけどマゾヒストなんてやってられないと思うのです。むしろどっぷり浸りきってしまうことのほうが、マゾヒストのあり方なのではないかと思います。だから逆に言えば、読み手である私たちに伝わってくる部分が弱くなってしまう可能性を秘めているわけです。主人公のマゾヒストが浸っているのと同じ世界に読者を浸らせないといけないわけですから。難しいですね、そのほうが。
さて、アンチ澁澤発言についてひとこと。たしかにそういった発言が出るだけの問題を、澁澤の文学/発言は内包しています。澁澤を教祖的に祭りあげる人たちが存在するのも事実です。そして私はこういった人たちに対して、非常な反発を覚えています(研究者の発言じゃないね)。
一番問題なのは、澁澤の友人であった人たちが巻きちらしている「澁澤の実像」という発言ではないかと思います。「澁澤はじつはこんな男だった」「子どもが大人になったような人だった」等など...。無意味な発言がそこいらじゅうにただよっています。
ですが、澁澤龍彦の本当の意味は、そんなところにあるのではないと思います。彼の文学の本当の姿は、作品の中に存在するはずなのです。
アンチ澁澤とおっしゃる方、それはそれで立派な立場です。どうぞ表明し続けていってください。ただその発言が、澁澤の作品を読んだ上であることを願っています。

そのうち、「澁澤とサド裁判」という論文を書く予定ですので、書きあがったら、またこのページ上でも要旨などを公開し、皆さんのご意見をうかがいたいと思います。

[No:35][ヘルカッツエ]  [97/5/19  13:58:30]  
渋澤はね・・・どこをどう言っていいのかわからないけれど、でもどうしてあんな解釈するのかな、って思う。
 たとえば「異常」をとりあつかう人でも、「コリン・ウィルソン」なんか
いいんだけどね。
 子供が大人になったような、というより、読み方が浅い感じがするんです
よ。表面的に異常ぶっているというか。ホンモノの異常じゃないな、って
思う。異常を取り扱っているのに、どうしてあんな通俗的な解釈をするのかって。
 その例として
 渋澤じゃないんだけど、三島の『サド侯爵夫人』、(あれは渋澤のサド
研究がずいぶん役立っているそうですが)、何であんなふうにしちゃったの
かな、と思います。
 もちろん、本当のサド侯爵の奥さんの気持ちなんか誰にもわからないけれ
ど、でも、あれはちょっと男の視点すぎるよな、って思う。
 何だか、サドの奥さんって、サドが獄中に居たときは献身的に差し入れ
などをして、サドが帰ってきたとたん放り出したのは事実で、それをもとに
書いたらしいですが、私はそれをミシマが書いたようなロマンティックな、
「サドが自分みたいな献身的な女が最後までひどいめに会う小説などを書いたから」などとは思いません。
 私としては、「これはよっぽど夫を恨んでいたな」と思います。(私は
女ですが、このような復讐を考えるタイプです。正直言って。)
 彼女は最初っから夫を恨んでいたんです。
 長い間「あなたには帰る場所があるわよ」的に思わせて、帰ってきたとたん広げていた腕をひっこめる、というのはサド以上のサドですね。
 それを何であんな女らしい女にしちゃうのか。

 それから、ヴィスコンティの映画『ルートヴィヒ』なんですが(サドには
直接関係ないですが)、あれも同じ感じです。
 何で「ルートヴィヒが本当に愛していたのはエリーザベトだった」という
何かちゃちで俗っぽい解釈ですよね。(ヴィスコンティっていつもそうで
す。何でアシェンバッハが作曲家なのか、どうしてタッジウの母親としゃべらなきゃいけないのか、結局なんだかんだ言ってSAのホモシーンとヘルムートバーガーのナチ服姿をとりたかっただけじゃないのか、とかいろいろ思います。)

 渋澤にも同じことを言いたいんですよ。一言で言って「俗」です。二言目には自分の解釈にはまりすぎです。
(まるで、オレがアシェンバッハをマーラーに似た作曲家だと思うからそうなんだ、と言わんばかりのヴィスコンティを思い出すんです。)

 上手く言えないけど、(渋澤の作品をとりあげてどこがどうと言えれば
いいんですが・・・)これが私が渋澤を嫌う理由です。

 サディストとマゾヒストに関して、他のサドやマゾの作家は知りません
が、この道の両開祖の作品(マゾッホは部分的にしか読んでいませんが)を
比較すると、サドの作品の方が文学性が高いような気がします。
 サディストの方が冷静である、というより、サドが作品から想像するよりも常識人であるからだと思います。
 何て言うのかな、渋澤は「強い男性の優位」みたいに解釈しているけれど
違うと思う。サドはたとえば『ソドム120日』の主人公の公爵を決していいようには書いていません。
 それを渋澤は、「そういう主人公たちを良く書いていないのは、世間に受け入れられるためだ」と解釈していますが、私はそうは思わない。
「ソドム・・・」では、公爵のことを「このように暴虐な男であるが、本当は非常な臆病者で、五歳の子供でも勇気を奮って立ち向かえばおそれをなして逃げ出すような人間である」というようなことを書いています。
 これは18世紀にしては非常な卓見であると思います。犯罪者が本当は非常な臆病者であることを、彼は見抜いていたのです。それを渋澤のように
「道徳的な母を力強く踏みにじる悪の化身としての父親」みたく解釈するのはどうかと思う。
 またサドは、SMを決して妻には要求しなかったと聞きます。あくまで自分の同好の志か、お金で雇える人間とやっていたようで、自分のセックスファンタジーと現実をきちんと分けていたように思います。
 それに比べて、マゾッホは自分の妻にSになってくれるように頼んだのです。いやですよね。「自分の妻が、自分と、産んだばかりの子供を置いて男を漁りに出ていってしまう」という(彼にとって)甘美なファンタジーを実行してくれるよう、奥さんに迫ったそうです。
 でもそんなことできる超人などいません。子供を産んだばかりでは男とそんなことをする気持ちにはなれないでしょう。
 それが、サドとマゾッホの差かなあ、と思います。

 SMですが、Mの方がいいですよ、そりゃ。自分の思うとうり相手がいぢめてくれるのなら、マゾやめられないですよ、きっと。私はやったことないけど。
 よくポルノ雑誌なんかで、むりやり縛って犯すようなのがありますが、あれはSMじゃなくてレイプですね。あれなら縛ったり殴ったりする方が楽かもしれないけれど、本当のSMならMの方が楽で楽しいと思う。
 サド、ってサディストだけのように思われているけれど、実は男色などしている時は、Mだったんでしょ?男たちに「モン・フルール」と呼ばせていたとか。う〜ん。

[No:36][ザッピー浅野]  [97/5/20  1:37:42]  
ヤプーは設定は秀逸でしたけどね。文章とかストオリイ・テリングの点でやや退屈する面があったのですが。ヤプー達の描写は余りにも人間と懸け離れ過ぎていて、感情移入できる様なもんじゃなかったです。マゾッホの小説などはゾクゾクするものも感じたんですけどね。

「澁澤とサド裁判」、楽しみですね。要旨だけでなく、論文そのものもついでに発表したらどおでしょうか、ここで。論文発表のコーナーがありますし。
澁澤ファンの「澁澤さんはこんな人だった」という意見は、澁澤氏の作品ののよき理解者であるAyaさんにしてみれば胡散臭い発言かも知れませんが、我々アンチ澁澤が彼を考え直す場合には、意外と重要な要素を含んでいるとも言えないでしょうか。
いや正直言って、「サド侯爵の生涯」などの著作で澁澤氏がサドのエロチックで幻想的な側面を見つけるにつけ、子供のようにイキイキと嬉しそうに筆を走らせる様なところなど、真面目にサドを勉強しようとしている人にとっては「何だこの人は」って感じがしてしょうがなかったんですが。彼のそう言う性格を考えないと、澁澤氏がちゃんとしたサド文学の哲学的解釈を持っていることをどうしても見逃しがちにならざるを得ないわけです。そんな筆遣いを何度もみせられると、彼の芸術鑑賞の嗜好が何でもエロチッ クで幻想的なものにこだわって、その解釈が浅いように「見える」のも無理はないでしょう。僕はどちらかというと、今は澁澤は好きな訳です。氏の人 間像を耳にするにつけ、誤解が解けた部分がありましたので。

三島の「サド侯爵夫人」のサド夫人像は、あれは作家の解釈なのだからいい のではないでしょうか。200年前の人の感情の真実など解る術もないのですし。でも、男の視点が過ぎる、というのは男の自分が読んでも感じました。でも三島らしいです。(ちなみに自分は本質的には三島は余り好きな作家ではありません、念のため)
自分があの作品を傑作だと思うのは、三島独特の表現の中でサド侯爵という人間が生き生きと描写され(ワインを花にやるエピソードなど、何と鮮やかな筆遣いではないですか)、最後に女達の会話を通して「天国の裏階段を登っていった」サドという解釈まで発展するスケールの大きさに感心します。それからサド侯爵夫人が本当に何故サドを捨てたか。サドはとにかく癇癪持ちで、どんなに自分に尽くしてくれている人に対しても、ちょっとした誤解や疑心暗鬼ですぐにカッとなって怒鳴り付けたり暴力を振るったりすることがあった訳です。これはサド夫人だけでなく、仲の良かった女中のルーセ嬢だって、折角骨を折って尽くしているサドがつまらないことでガーガー怒鳴って、「もういいや」って気持ちになってしまうことがあったわけです。サドの拘留中後半は夫人ももうほとんど修道院生活だったわけですし、出所し てきた50の峠を過ぎた肥満体のサドに対する態度としては、自然なものがないですか? それを、作家風に戯曲の中でロマンチックに解釈というか、ストーリーを作るとなると、「サド侯爵夫人」の様な、サドの作品と哲学の概念も絡めたああ云った感じになるのは自然に思えますけどね。

サド文学の解釈ですが、彼の文学にはその「世間に受け入れられる」為の要素と、「サドを苦しめた権力達への復讐」と、「悪なる自然の絶対性」みたいな要素が、表面的には所々「矛盾する」という形で共存しています。この「矛盾点」をサドの人生やフランスの社会背景などと照らし合わせつつ、掘り下げていかないと、表面的なセリフをひとつふたつとってそれだけである種の理解を得ようとしても、無理があるのではなかろうかと。サドの文学がこの大いなる矛盾の上に成り立っているのは、それはサドの文学がサドの「個人的な」状況と感情の産物だからで、だからこそ、彼の文学は同時に現代に通じる普遍性を合せ持っているのではなかろうかと、僕は思うのです。ちと抽象的過ぎる意見でしたが、皆様はどう思われるでしょうか。

いや、具体的にも一言いいますが、「犯罪者が憶病者」、それは本当です。リアリズムというか、仏教的な考えでは。しかし、サドの文学の体質上、そうとらえられるものでしょうか。社会的に破滅してしまったサドが、想像力のみを武器に、悪徳と放蕩の哲学を極限まで推し進めていったその文学活動に、そのような真の人間性に迫るメッセージ性があったか・・・、無意識の人間観察というのならね、ま、フランスだから生まれて一度も洗っていない 糞のこびりついた尻の穴だってありえたでしょうからね。

[No:37][ヘルカッツェ]  [97/5/22  15:43:12]  
 さっき、チャットルームを覗いてきたら、皆さん私のことを「男」であると誤解しておられるので、ひとことだけ。
「私は正真正銘の女です。男ぶっているつもりはみじんもありません。」

 ayaさんは「妙に力が入っているからかえって女かな、と思う」とおっしゃられていましたが、それは差別的な発言ですぞ。
 私は「無知からわけのわからない発言をしている」可能性は大きいですが男ぶって肩に力を入れているわけではありませんよ。

[No:41][Aya]  [97/5/25  16:14:42]  
ヘルカッツェさんへ

私が「妙に力が入っている」といったのは、主にNo.35で、三島の文学に対して「男の視線過ぎる」と、盛んに主張なさっていた事に対するコメントです。
たしかに三島は、極め付きの「男」です。支配欲と権力欲に支配され、その中にある「女性性に対する恐怖と畏怖」には、全く目を向けようとしなかった、ある意味で、本当の「男」です。ですが、その人の作品に対して「男の視線過ぎる」という批判は、あまり生産性がないような気がするのです。性差を言ってしまうと、文学は、それだけで片付いてしまいますし、何よりも「男の視線過ぎる」という主張そのものが、性差を「あってはならないもの」として考えていると、誤解されかねません。
あなたは「無知がゆえにわけのわからない発言をしているかも」とおっしゃっていましたが、あなたの発言には、そんな言い訳が必要だとは、とても思えません。そして多くの発言よりも、自分の快/不快という感覚の方が、最終的には信じるに足りることだと思いますよ。
ともかく、不要な発言で不快な思いをさせてしまった事に関しては、おわびします。ごめんなさい。
これに懲りず、また、このページへ遊びに来てください。でないとざっぴーさんが悲しむよ(^^)。
では、また。

PS 個人的には、あなたが男でも女でも、どっちでもよいのです。そしてAyaが男であっても女であっても、どっちでもよいことです。問題はその人が何を言いたいかであって、性差ではないような気がするのですが。
(といっているAyaがあんな発言をしてはいけませんね。反省(^^;))。

[No:42][ヘルカッツエ]  [97/5/26  14:48:14]  
まあ、ミシマの文学を「男の視点すぎる」と言うのは「いわずもがな」だったかもしれません。でも、あれは「ちょっとなあ」と思ったのです。
 妙に力が入っているかもしれません。どうしてかと言うと、ザッピーさんやAyaさんは、「サドを研究していらっしゃる」わけで、私も二、三読んではいるものの、「ここらへんがああだ」「ここのぶぶんがこうだ」とはとても言えるほどの知識が無いのです。(本当です。言い訳ではありません。
私の本職は、「真面目に、歴史や社会現象としてのナチズムおよびナチス時代」であって、あとはトーマス・マンとかいった独逸文学ならかなりいけますが、もともとフランス文学畑じゃないのです。)
 だから、感覚的な「好き嫌い」ぐらいしか言えないのです。ですから、この掲示板の本旨にはずれてるかもしれないなあ、といつも思うのです。自分の快不快の感覚が、最終的には信じるに値する、とおっしゃっていただけて嬉しいです。
 別に、「性差があってはならない」というようなことはひとつも考えておりませんでした。正直言って、私が男であってもミシマとかヘミングウェイとか、川端康成もそうですが「男性的すぎる」ことに辟易したと思います。
 それは、私が女流作家で女性的すぎるものに辟易することがあるのと同じです。(ちょっと文学では思いつかないのですが、たとえばマリー・ローランサンとか、いわさきちひろの絵などは、「おえ〜っ」という感じになってしまいます。)
 反対に、サドやアポリネールの「男性中心」にはそれほど嫌な感じを覚えないのです。別に、「男性の視点すぎる」ことがすべていけないわけでもないのです。でも「ミシマの男性中心的なところ」(『サド侯爵夫人』、『美徳のよろめき』など)には気分が悪くなるところがあります。
 何て言うのかな、確か『文章読本』だったと思うけれど、煎じ詰めれば
「自分は男も女も上手く描写できる」と言っていたけれど、やはり女性を描かせたら良くない、というのは私の感想です。

[No:44][ザッピー]  [97/5/30  23:18:43]  [http://www.jah.or.jp/~piza/]
ヘルカッツェさんが「男の視点すぎる」といったのは、「三島は女の気持ちが解っていない。女の私から見たら、解釈はこうだ」という意見ですよね。
文学というものはいわば「人間研究」であるので、読むものの主観的な立場は重要だと思います。
例えばサド文学の読み方、解釈の仕方でも、カトリック教徒が読むのと無神論者が読むのでは違いますし、フランス人が読むのと日本人が読むのでも違うでしょう。性別も、文学の解釈において影響を及ぼすことは明白です。
だから、文学の論議なんて、自分の知識、感性の範囲内で参加してくだされば十分なのです。サドについて専門に研究していなくても、だからこそ新しい視点が生まれるということもあるでしょうし。我々のように普段からサドの専門書や解説文などに接していると、それらのものに与えられた固定観念に、無意識のうちに縛られている部分もあるかもしれませんし。
逆に、本格的な書物や公の場でサドについての意見を述べるときには、どうしてもそういった専門的なサドについての研究のバックグラウンドがないと、ものを言う「資格」がないということになりがちです。そういう点で、文学・哲学系の人たちとは違ったフィールドで色々な人と議論を重ねていくことができるのは、「サドマニア」の利点であるといえると思います。
それがAyaさんの言うところのこのホームページの「バランス」ということでしょう。

goback.gif