サドを語る・バックナンバー4 - サドマニア - マルキ・ド・サド(サド侯爵)ファンサイト

1997年8月11日〜10月30日



[No:69][Kumaki Atsushi]  [97/8/11  17:24:54] [Comment Number-68] 
初めまして。新参者の熊木と申します。僕はサドよりもマゾヒズムに興味があって、ここに至りました。当然予想されたことですが、ここでは「サディズムの方が文学性が高い」などという意見が多いように思われます。ここでマゾヒズムを擁護するわけではないですが、サディズム=マゾヒズムに関する議論が尻つぼみになってしまった感があるので、ここで蒸し返したいと思います。
余談ですが、ここに意見を述べている方々のほとんどが澁澤経由でサドに至っているということは僕にとって非常に驚きでした。僕はフランス文学専攻なので、そのつてでサドを極めてわずかですが読んできたので、澁澤がらみの議論はほとんど参加できないのですが、そのおかげで、マゾヒズムの観点からサドを読み込むことができたと思います。読んでないのに言うのもなんですが、澁澤のイニシエーションを受けると、とりあえずサドを「狂気」とか「異常」という点で捉えてしまって、サドを狂気と名付けることそのものに対する批判的な観点がなくなってしまうのではないかと思います。
さて、本題に戻りましょう。僕はマゾヒズムに関して何か書こうと思っているので、言いたいことは山ほどあるんですが、重要な点だけを書きたいと思います。(丸尾さん、もしSMについての論文ができたら是非読ませて下さい。しかしぼくが興味があるのはSMではなくマゾヒズムです)まずサディズムとマゾヒズムをどのように定義するかです。僕はこう考えます。つまり、両者は快楽とのかかわりによって規定されるのだ、と。サディズムの方はあらゆるものを快楽と結びつけようとし、マゾヒズムはあらゆるものが快楽と結びつかないという不可能性によって規定されます。たとえば『閨房哲学』におけるMme de Saint-Angeはみずから苦痛を受け、それに耐えることで快楽が生まれるといいます。このことは納得していただけると思いますが、マゾヒズムが快楽と結びつかない、ということには異論も多いのではないでしょうか。僕はこのことをマゾッホではなく、天野哲夫から学びました。マゾヒズムについては長くなるし、ここはそのような場ではないので、あまり語りません。意見があるかたは、僕のところにメールを送って下さるとありがたいです。
とにかく、サディズムを語る場合は、この快楽との結びつけにおいてでなければならないと思うのです。従って僕はサディズムが狂気であるとか、異常であるとか決して思いません。なぜなら、人間はだれしも快楽と何かを結びつけるのであり、狂気というものは程度の問題ではないからです。むしろマゾヒズムの方が狂気たりうるのです。何者も快楽と結びつかないという自体は全く異常であり、考えられえないものですらあります。そしてそのような世界が『家畜人ヤプー』の世界なのです。

僕のまわりにはこのような問題について考えるような人はいないので、たくさん意見をくれるとうれしいです。では。

[No:70][ザッピー浅野]  [97/8/16  16:19:55] [Comment Number-69] [http://www.jah.or.jp/~piza/]
熊木さん、書き込み有難う。フィードバック遅れてすいませんでした。

「マゾヒズムよりもサディズムの方が文学性が高い」かどうかは知りませんが、少なくともザッヘル・マゾッホよりもサド侯爵の方が文学性が高いのは確かだと思います。
僕のサディズム・マゾヒズムについての見解は、掲示板のバックナンバーのNo:34のAyaさんの発言に通じるものがあります。単純にいうと、世界を冷静に見つめているのがサディストで、感情に浸りきっているのがマゾヒストということになるでしょう。文学というものが「人間研究」であると定義した場合、サディズム文学は客観的な分析で、マゾヒズムはメッセージ性よりも叙情的なドラマが主体となっているといえるでしょうか。確かに、マゾヒズム文学のなかでまず最も文学性が高いと思われる谷崎文学でも、理論的なことよりも倒錯的な官能の世界に浸りきった内容が多く、この例に漏れません。逆にサド文学はある意味では、人間の性やモラルというものを分析して、それを支配しようとする試みだと思います。具体的に言うと、サドは自分の性をコントロールしようとは思っていませんが、それを羅列し、体系させ、それらに自然や文化の本質に基づいた理論的裏付けを施し、自分をとりまく社会の普遍的モラルを支配しようとしました。この点で、サドが本当の意味でのサディズム文学の究極であることは紛れもないことでしょう。彼は自己のモラルによって、社会まで服従させようとしたのですから。

サディズム文学のほうがマゾヒズム文学よりも面白いか。これは解りません。サド文学はある種の究極の形であり、そこから見下ろしてみると、他のサディズム文学もマゾヒズム文学も大したレベルの差はないと思います。また、サド以外にサディズム文学は何があるかと言うと、はっきりと名状できないものがあります。個々の文学作品のマゾ的側面、サド的側面のように部分的なことまで討論の範疇にいれると幅は広がることと思いますが、人間性を客観的に分析したものよりは、叙情的なもののほうが一般的な「小説」らしいという気はします。

ちなみに澁澤氏のサド観ですが、彼は決してサドを「狂気」とか「異常」という視点で見ていたのではなく、哲学的にちゃんとした見解は持っていたことは確かです。ただ、彼や私のような人達はそういった暗黒的で世間一般に見ると異常で狂気なものの正当性が解る関係上、やはりそういったものばかり吟味したがるので、結局同類の理解者達を増やすだけに終わり、一般的に見たらミイラとりがミイラになっているようにしか見えないのが問題なのです。これが「愛好者」の限界というものでしょうか。

「マゾヒズム」の定義について若干曖昧な点が残っているようです。これに関しては、長くなってしまうので、またの機会に回したいと思います。

補足。丸尾さんのSMについての論作文がようやく掲載の運びになりました。サディズム、マゾヒズムについての明確な分析が展開し、「SMの社会性」等、興味深い視点が随所に見られます。この場で取り上げ論議する価値のあるものだと思いますので、ぜひご覧下さい。

[No:73][kuma]  [97/8/18  2:30:15] [Comment Number-70] 
ザッピーさんに回答する前にいくつか訂正したいと思います。

一つは澁澤について。前述したように彼の作品を読んでいないので、「彼を経由するとサドを異常とか狂気という概念で捉えがちになる」といった見方は軽率でした。
もう一つは「マゾヒズムよりもサディズムの方が文学性が高い」と僕が言ったことでした。僕が言いたいことはマゾヒズムよりサディズムを高く評価しがちだということ、サディズムをマゾヒズムの上位に置きがちだということでした。つまりここで文学性というのは全く不適切でした。文学性などというものを僕が安易に措定してしまっているのではないかという誤解を受けたのではないでしょうか。
僕が驚いたのは、ザッピーさんがそれに対して、文学の定義までして回答して下さったという点です。僕は基本的に文学を信用していません。つまり「文学」というものが他の文章と区別され、それらの文章に対して特権的な立場をとるなどとは思っていないのです。本質的に「文学」と呼ばれているものとそうでないものを区別する手段などありません。たとえばアカデミズムなどの極めてイデオロギー的な場において「研究価値があるかないか(もちろんこのことも本質的に区別できるものではありません)」によって曖昧に区別されいるにすぎないのです。したがって文学を人間研究と定義できるとするならば、文学を人間研究と定義できる場にいるといっているに他なりません。つまり文学については何事も言っていないのです。ちょっとSMの問題からは離れてしまってますが、「文学」というものを考えるにあたって、文学を何か本質的なものとして考えてしまうのは極めて危険なことである(つまり文学を本質的なものとしているイデオロギー的な場に盲目的であるという意味で)と思うので、一言しておきます。

本題のマゾヒズムについてですが、回答するのに少々時間を下さい。ただ一つだけ言わせて下さい。僕が考えているのは、おそらくほとんどの人がまだサディズムとマゾヒズムを二元的に考えているのではないだろうかということです。当然皆さんサディズムとマゾヒズムを二元的に考えることの不毛さを感じていると思います。しかしこの二元論を抜け出すのは簡単ではないでしょう。私見では丸尾さんから頂いた「論作文」もこの二元論にアンチノミーという形で陥っていると思います。
何だか皆さんの意見ばかり批判して自分の意見を出さないのは卑怯ですが、少々お待ち下さい。では。

[No:75][ヘルカッツェ]  [97/8/19  17:57:37] [Comment Number-70] 
またまたヘルねこさんです。

kumaさんへ。

私は、サディズムとマゾヒズムが二元的なものだとは思っていません。お互い、入れ子のように内包しあっているのではないか、と思っています。(私は、サディズムと虐待は区別されるべきだ、と常々思っています。むろん、SMプレイから虐待にいたって相手を死に至らしめることはありますが。)メディアではサディズムと相手を虐待することがいっしょくたになりすぎていて、本質が見えなくなっていると思います。
本当は、サドとマゾは「お互い役割を合意の上で」楽しむものらしいです。そう考えると、お互いなくてはならない存在です。(しかも役割は決して固定されているものではなく、時に応じて変わることもあれば、あるいはAさんに対してサドだった人が、Bさんにたいしてはマゾになる、というように相手によって変わったりするそうです。)
肝心なことは「サドはマゾの思うように支配してやらなければならず」、「マゾはサドを支配させるように動かさなくてはならない」と思うのです。
つまり、表面とはうらはらに、もう一段深いレベルで、サドはマゾであり、マゾはサドなのではないか、と思うのです。
考えてみると、これってすごい快感だと思います。ふつうのセックス以上に、相手と混ざり合い、一体化することが可能になります。(注:私がそのようなことを体験したわけではありません。)
このようなことを書いていると(先に書いたこともあって)実際のセックスしか頭にない人間のように思われそうな気がしますが、サディズムとマゾヒズムを考えるにあたって、「実際はどうなのか」を少しは考慮にいれないと道に迷うと思います。
そしてそれを考えると、サディズムとマゾヒズムが対立するものではなく、お互いを補完しあいかつお互いを内包しあっているものなのではないか、という論考がなりたちます。

それから、私は「サディストが理性的に世界を見つめていて」、「マゾヒストが感情にひたりきっている」という意見には賛成できません。これもまたおなじみの「二元論」ではないでしょうか。

[No:83][pea]  [97/9/4  1:55:51] [Comment Number-                ] 
いますよね、本当に。エネルギーの固まりを感じさせる作家が。
こういった作家は、読んでいたうんざりすることも多いのですが、逆にその作品に現れているエネルギーにセクシーさを感じることも多いです。(僕は男ですが、男性の作家のその種の作品に対しても、そういった感じをもつことがあります。)
申し遅れましたが、このページには初めて書き込みさせて、いただきます。今後も参加させていただきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。
今話題になっていることは何ですか。性差の問題ですか。興味深い問題だと思います。またいつか一言寄せさせていただきたいですね。
ps.丸尾さんの論文、拝見しました。とても面白かったです。しかし、僕は、マゾヒストなのですがその観点からすると少し、自分なりの意見を言わせていただきたい部分もありました。そちらのほうでもまた参加させていただこうと思います。

[No:85][ザッピー浅野]  [97/9/14  20:18:59]  [http://www.jah.or.jp/~piza]
皆様こんにちは、やっと掲示板を更新することができました。
遅ればせながらSMに関する議論の続きと、丸尾さんの論文についての意見を書かせていただきたいと思います。

まず、丸尾さんの論文についてですが。
丸尾さんの意見は的確な面が多く、特に最後のSMの社会性の論議などはまさしくサディズム・マゾヒズムの考察を哲学的な範疇まで追求した見事なものですが、前半のSMについての定義に若干疑問が残ります。
論作文の中で丸尾さんは「SMは肉体的なものである。『毛皮を着たビーナス』は愛がテーマであるので、主人公は本当のマゾヒストではない。」といった意味の意見を述べています。しかし、SMは本質的に精神的なものであり、その肉体性というものは精神性の表面的な現象のひとつでしかないのではないでしょうか。『毛皮を着たビーナス』の主人公が「苦痛」によって快楽を得ていたのも確かだと思います。
ここでごく一般的なサディズム、マゾヒズムについての定義を再確認してみますと、

サディズム=他己に苦痛(精神的であれ肉体的であれ)を与えることによって性的満足を得る異常性欲の一種。
マゾヒズム=苦痛(精神的であれ肉体的であれ)を与えられることによって性的満足を得る異常性欲の一種。

となります。
例えばヘルさんがNo:75の意見で「サディズムと虐待は区別されるべき」「本当は、サドとマゾは”お互い役割を合意の上で”楽しむもの」とおっしゃっておりますが、これも丸尾さんの誤りと接点を感じます。私はむしろ「異常性欲としてのサディズム・マゾヒズム」と単なる「SMプレイ」を区別するべきだと思います。「虐待」でも、それを行使する主体の心理の中にサド的な精神が宿っているケースはありますし、虐待される客体となる人間がその行為の中にマゾ的快楽を得てしまうケースもままあります。「お互い役割を合意の上で”楽しむもの」とは、まさしく単なる「SMプレイ」の定義でしかなく、サド・マゾの本質ではありません。そして、これが最も重要な点なのですが、サディズム・マゾヒズムは文学・哲学的な考察が成り立ち、サド文学の解釈にも適応することは可能ですが、「SMプレイ」は単なる形骸的な趣味・趣向の話にしかなりません。
例えばSMクラブなどの風俗で、合理化されたシチュエーションによるSMプレイは、真のSMのシュミレーション的なものです。現代社会ではそういった趣味を持つ仲間を見つけるのが、そういったシステム化・シュミレート化された機関を利用することによって容易に実現できます。すると逆に、本来そういった趣味を持っていないノーマルな者も、ちょっとした興味本位で、ソフトなSMを堪能できる御膳立てが整っています。
丸尾さんは、逆にそういった即物的なSM行為だけを真のSMだと見なしているように思えます。異常性欲とは特異なシチュエーションによりふだん眠っている性的な想像力を刺激して楽しむものだとすれば、まさしく精神的なものではないでしょうか。ならばあらゆる虐待行為、社会・文学の解釈に適用が可能です。そうすれば、「SMの持つ社会性」の議論も、更に広範囲で考察が展開できると思います。

意見、反論があれば、遠慮なくお待ちしております。

[No:86][サトケン]  [97/10/4  7:11:48]  
初めてお便りいたします。
少し話題がそれてしまうかもしれませんが、私としては、サド/マゾヒズムの対立関係(?)あるいはその解釈とは別の角度からサド侯爵について議論したい、と考えます。テーマはおそらく“サド侯爵の悲喜劇”ということになるでしょう。神戸市須磨区の殺人事件をサド侯爵抜きで考えることは、私にはできない。
私見では、サド侯爵が表現したカトリック的道徳への反逆やいわゆるサディスムは、サド侯爵自身の嗜好とかなりの程度重なっていただろうと想像します。サド侯爵の作品の中にある、いわゆる自己弁護の息遣いの存在を否定するのは、不誠実だとすら言えます。しかしそのこと自体は、サド侯爵の比類ない文学的営みの価値を貶めることにはなりません。というのも、サド侯爵においては書く行為が、“自己肯定をリソースとするシステムの産出”という形をとっているからです。
遠回りは止めましょう。ぶっちゃけた話、私はあの少年Aを許せないと感じたわけです。自己肯定のために他者を犠牲にしてはならないのだと。ことさら善人ぶるわけではありませんが、殺された少年の写真を見て、自分でも思いもよらなかった深い「憐れみ」のうねりを抑えきれなかった。
サド侯爵の文学は疑いなく、“キリスト教”を“民主主義”に置き換えれば、少年Aの行為を論理的に肯定していると言わざるを得ません(“作品の多義性”などというジョークをまじめにとらえて、作家たちの悪事を擁護するナイーブな文学研究者も多数生息しているわけですが)。しかし、ジュスティーヌをあれだけ詳細に描写したサド侯爵が、「憐れみ」の感情に敏感だったことは容易に考えられます。つまりサド侯爵にとっても、「憐れみ」を、押し付けられた道徳的価値として相対化することはできなかったのではないか、ということです。レヴィナス風に言えば、他者を前にした「憐れみ」が主体を形作っているのだから、それは当然のことだとすら思われます。
書く行為の中でサド侯爵が見出したのは、社会に対してばかりではなく自らの「憐れみ」に対しても言い訳がもはやできない、という境地、元来が虚構であるはずの言語の責任を取らなければならないという馬鹿げた(セリーヌ的な)逆境、つまり、「沈黙」の空間への永遠の踏み迷いだったのではないか。『ソドム』での百科全書的な記述は、そうした悲喜劇的な“チャレンジ”のひとつの帰結だったのではないか、というのが私の個人的なサド侯爵に対する印象です。

長くなりましたが、ご意見をお待ちします。




[No:87][ヘルカッツェ]  [97/10/4  16:34:46]  
ヘルねこさんです。お久しぶりです。

リレー小説、とうとう始まりましたねえ。ザッピーさん、最終稿からまた少しことばが変わっていますね。なんか、インターネット上で見るとすごく立派にみえます。(じゃあ、原稿の状態だったら立派でなかったんですか、というつっこみはしないでくださいね。)
一、二週間後にはわたしの書いた第二回目がアップロードされるそうですので、このホームページをご覧のみなさま、ぜひ読んでやってください。(ただし、その小説でわたしの人格を判断しないでいただきたい、という注はつけさせていただきます。)もしご感想などがありましたら、ぜひこの掲示板上で教えてください。

ではまた。

[No:88][mikako]  [97/10/7  3:39:51] [Comment Number-88] 
はじめまして

>ただし、その小説でわたしの人格を判断しないでいただきたい、という注は>つけさせていただきます。

奇麗事を言う人より、自らのダークサイドに自覚的で表現する人の方が信用できそうな
気がします。リレー小説、期待しています。

いわゆるSMプレイと観念的SMの違いについてはzappie氏に共感します。

[No:89][丸尾]  [97/10/8  1:55:34]  
どうも、ヘルねこさん。丸尾です。
まだザッピーさんの作品を読んではいませんが、ヘルねこさんの作品を楽しみにしています。mikakoさんに関してですが、何かいうのはやめておきませんか。
今はなぜか文章を読むことに頭が働く状態ではないのですが、ヘルねこさんの作品がここへと載ることを楽しみにしています。
asuraさんの三作目が仕上がり、またここへと載ることも楽しみにしています。asuraさん、頑張ってください。
それでは、また。

[No:90][ヘルカツッェ]  [97/10/12  10:25:40]  
丸尾さんへ。

どうも。私の作品、期待してくださってありがとうございます。一昨日アップロードされたとのことで、ぜひ読んで感想下さいね。

>mikakoさんに関してですが・・・
というくだり、どういうことなのでしょうか?(またあの8月の事件のようなことにしないで下さい、ということでしょうか?そんなことしません。)
mikakoさんがどのような意図で発言されたのかわかりませんが、私としてはむしろいい意味に受け取りました。つまり、えげつない小説でもいいよ、と言って下さっていると思ったのです。

あしゅらさんの次回作に期待しています。


[No:91][asura]  [97/10/13  3:28:36] [Comment Number-91] 
はじめて書き込みます。
サディズムとマゾヒズムについて僕なりの意見を。
思うにこれは異常性欲でも何でもなくて、まったく日常的な、普通の現象だと思います。マゾの人、サドの人、マゾの人はサドの人がいないとやっていけない。こういうことはないと思います。
爪をかむ。髪の毛をいじる。アトピー。これらはサディズム、マゾヒズムの産物だと思います。
なぜこういったことがあるのかというと、いろいろなんでしょう。ひとつの考え方を書いてみます。
月並みですがまずストレスが考えられます。ストレスという言葉はとかく安易に使われがちですがこれは人間の生きる意味を考えるときに重要な言葉だと思います。動物というのは充足したがる性があって、これが足りない場合ストレスが生ずるようです。これが原動力となってそのストレスを発散するため行動するわけです。はたして人間以外の動物が爪をかむか否かわかりませんが、とにかく人間は現在多様なストレス発散法を考案しているようです。
人間はしばしば身体の様々な機能を驚くべき方向へ転換します──動物はオナニーをするのでしょうか?──体を守るための神経を刺激してその反応を見るという遊びはすでに全人類的に広まっているのではないでしょうか。これはおそらく人間特有の行動で、自殺願望の一環だと思います。もちろん自殺に至る人はいまのところ少なく、爪をかむわけですが。
猫をいじめたりする行為は、狩猟行為なのだと思います。とはいえ人間は猫をほふって食わずともスーパーで肉が簡単に買えますから、食うのが目的ではないのでしょう。もちろんのことながら動物は動物に対して食いたいという願望を持つようです。相手が自分よりもあきらかに弱いならなおさらで、これを捕らえないなら、ストレスが生じます。発散するために捕らえ食うわけですが、もし食い物が十分にあり腹が減っていないなら、もちろん狩猟するシミュレーションだけを行って、ストレスを発散するわけです。連続殺人をする人が死体を食うケースが多いのはこういうことではないかと思います。
身の危険が少なく、生存に不安がなくなったとき、生物は恐るべき飛躍を見せ始める。食い物はある。水、冷房、暖房、コーヒー付き。さてなにしよう? もちろん爪をかみ、髪をいじり、指をなめ、ブロウジョブをするほかないわけです。

[No:92][Mikako]  [97/10/13  4:16:6]  [http://ns2.cypressnet.or.jp/slow-g/]
新参者なので8月のことはわかりませんが、「現実と虚構は違う」ということをいいたかっただけです。

特に神戸の事件以来ホラービデオが悪いとか、そういうくだらない規制が強まりそうで、私自信中・高校生のときにちょっと問題児で、知らないうちに思想チェックなど受けた経験があるので(妙に親切な友達に気を許してコリン・ウィルソンの殺人鬼本など貸してしまうと、先生に筒抜けになって「読書傾向に問題ありとかいわれてしまう)、こういう場では好きなことを書きましょうといいたかっただけですが。

誤解を招いたのなら申し訳在りません。

[No:93][ヘルカッツェ]  [97/10/13  19:36:50] [Comment Number-92] 
mikakoさんへ。

ごめんなさい、誤解させてしまって。私は、丸尾さんに言ったのです。8月に、私の意見に書き込んで下さった方と対立がありましたので、それを心配されて、89番で「mikakoさんに何か言い返すのはやめて」とおっしゃったのだと思うのです。
(ちょっと、丸尾さんの発言って、具体的に何を指しておっしゃっているのか、あいまいな点があるのですが、私はそう解釈しているのです。)
だから私は、「たぶん、mikakoさんは、エログロのえげつないものでも、心配しないで発表したらいいと思う」と励ましてくださっているように解釈しましたよ、だから、8月のようなことにはなりませんよ、と丸尾さんに言ったのです。

そして、92番の発言を見て、やっぱり「気にしないで発表したらいい」とおっしゃってくださっているので、とても嬉しく思いました。

もし、(非常に読みにくいのですが)「サンドフィッシュ作戦」読まれたらぜひ感想下さい。(いえ、mikakoさんだけじゃなくて、このページに来られている方なら、誰でも。)

ヘルねこ 拝

[No:94][ヘルカッツェ]  [97/10/13  19:49:42] [Comment Number-91] 
asuraさんへ。

動物園の動物も、オナニーをすることがあるそうです。(やっぱり食物と安全が確保されていてヒマだからだろうか。)

あんまり私の意見には賛成してくださる方はいないのですが、やっぱり虐待とサディズムは違うと思います。
神戸の事件で、例の少年が、「ネコを殺したり、あるいは淳くんを殺したりしたことで性的に興奮した」などと報道されることで、さらに誤解が深まると思います。
「一方的に虐待を加えることで性的に興奮する」ことはあると思います。例の神戸の少年がその生き証人ですからね。でもそれをサディズムと定義してしまうと、世の中にマゾヒストというものは存在しない、あるいはほとんど存在しないことになってしまいます。(やっぱり、殺されたい人はいないでしょうね。死んだら快感も味わえないわけだし。)

SMクラブのいわゆる「女王様」に言わせると、やはりあまり「痛い」プレイを好む人はいないようです。例えばロウソク攻めでも、やけどするほど熱いロウではなく、専用の低い温度で溶けるロウを使用して、それも温度を手で確かめてからするそうです。
された方は、「熱い!」じゃなくて、「あれ、何だろう?」と思うくらいなのだそうです。
マゾッホの作品を読むと、「自分の思ったようにイジメてほしい」のであって、これを突き詰めると、マゾヒズムというのは精神的にはかなりサディスティックなものだと思います。
私も、(そのようなことはしたことはありませんが)、「私の思ったようにしてくれるなら」マゾのほうがいいと思います。

だから、「神戸のA少年」的意味ではないサディズムには、マゾヒズムを必要とするし、またお互いの合意が必要であると思うのです。

[No:96][ヘルカッツェ]  [97/10/19  22:6:48]  
asuraさんへ

小説、なかなか面白かったです。冒頭を読んだときには、どうなることやらと不安でしたが。軍のクーデターがこんな民間にまで伝わっていたとは情けないです。

私のはちょっと長すぎて重すぎて、プリントアウトした紙で読むとまあまあなのですが、ネットで見るときにはもう少し短く軽いものが良いのだなあ、と反省しております。
もし、第二話までをごらんになってページをスクロールしただけで「こんなもんか」と思われた方がいらっしゃいましたら、ぜひプリントアウトしてじっくり読んでください。
ざっぴーさんの第一話も、私の第二話も、たぶんなかなかの出来です。

そして、もしお読みになったら、ぜひメールください。(読みにくい、エグい、つまらない、こんなご時世に何を考えているのか、という非難でもけっこうです。)

ではまた。

ヘルねこ 拝


[No:99][takayuki]  [97/10/29  19:18:59] [Comment Number-99] 
今更ですが、丸尾氏の論作文について。
現代における「SM」にこうまでいわゆる「社会性」が入り込んできてしまった背景には、私は60年代からの「性の解放」の影響が非常にあると思っています。彼らの主張の基調音として「今まで『異常』と考えられてきた行為であっても、誰に迷惑をかけるでもなく、双方が合意の上ならば、それは許されると思う・・・」という考え方がありますが、これは一見サドの思想を容認しているかにみえて、実はそれと鋭く対立しているのです。まさしくその「ものわかりのよさ」ゆえに。彼らはサド的なものを自分たちに都合のよい表面的なものとしてのみとらえ(その範囲でのみ”認め”)、現在のような形に変質させてきた、とさえ言えるでしょう。これには現在のメディアというものの母性的な特質(寛容とスポイルの原則)も関係しています。また、もともと「サディスト」「マゾヒスト」という用語を作り出した精神医学界にもその責任は非常に大きいと言えるでしょう。
話は変わりますが、いわゆる「サディスト」とサド、「マゾヒスト」とマゾッホを別物と考えよという主張、これは大英断と思います。古来人名を元にした普通名詞は往々にしてこうした運命を辿ってきたものですが(一例、エピキュロスとエピキュリズム−快楽主義)、サドの場合この違いが一般に理解されていない気味があるので。(ドゥルーズの「マゾッホとサド」ではテキストに依拠した思想をもって真のサディズム、マゾヒズムとしよう、という姿勢でしたが)こうしてはっきり「別物」と考えてしまうと今のいわゆる「サド−マゾヒズム」ですか、”一元的”に考える仕方もある程度わかりやすくなるというものです。もともとこれは精神医学のコンテクストにおける概念なのですからね。
最後に。マゾヒズムを「肉体性」のみで定義したことについて。私はこれに断固反対です。詳しくはまだ語れる段階に入っていませんが、次のことだけは言っておきたいと思います。「『苦痛を楽しむ』は名義矛盾である。」
さて・・・、「手紙」でほぼ年齢をバラされてしまいましたね。あれは個人的な私信(日本語おかしい)のつもりだったのに。まあ、未成年のうちは「マニア」登録は慎重にしておきたいと思います。それでは、また後ほど。いつになるのか(笑)


[No:100][丸尾]  [97/10/29  21:34:36]  
どうも、丸尾です。
論作文上の定義に関してですが、説明を書かなければと思いますが、私個人としても、ザッピーさんや、takayukiさんの意見に、賛成であります。その点に関しては、否定しようもありません、と、そのように思っております。また、書き込みます。takayukiさん、書き込み、ありがとうございました。あとでもう少ししっかりと読もうと思います。それと、asuraさんの書き込みに関してですが、部分的には賛成ですが、また部分的には違うかな、と思っております。
と、今回は以上で。

[No:101][takayuki]  [97/10/30  17:59:56] [Comment Number-99] 
前回の書き込みについて反省。いきなり本論に入ってしまったのでわかりにくかったと思います。まずは論ずる対象について、全体を通しての感想と、どの部分を是としてどこを非とするのか、自分のとる立場をまず書いておくべきでした。
「サディストはマゾヒストを必要としない」−是。これは私もかねがね言いたかったことである。
「現在のSMには“社会性”がある」−是。なるほど!こんな風に“契約”が成り立っているのか。よくぞここまで分析なされた。たしかにこれは、サドの登場人物達では考えもしない状況であるわけだな。
そして−「SM」がこんな風になってしまったのはどうしてだろう?と考えた結論をNo.99に書いたわけです。つまり、現状にいたる原因の分析ですね。本論を承認した上で成り立っているわけです。
次、人名を元にした普通名詞・・・の項で言いたかったのは「言葉は生き物であり、時代や社会状況で意味が変わる」そして「文学と精神医学の言葉はちがう」ということです。
「マゾヒストは肉体に受ける苦痛のみを快楽とする」−非。
と、いうか、思ったんですけれど。「サドの登場人物」たちって、時に「性欲を昂進させるため」に自ら鞭打たれたりしますよね?この現象をもマゾヒズムに包摂しようとしたためにこうした混乱が起こったんじゃないかなと。

(引用)
次に「苦痛を与えられ喜んでいるのはいったい誰でしょうか?」ですが、私は 「主人公的人物」と答えます。ここのはじめに私は、「(主人公的な)登場人物は みなサディストであります。」と書きました。そのような人物たちが苦痛を与えら れ、喜んでいるのです。サディストがマゾヒストであるのです。

ただ、これを突き詰めて考えていくといろいろと不都合が生じてくると思います。だからなんでしょうか、丸尾氏の論理がときどき奇妙に足踏みしているように見えるのは。どのようにまとめるつもりでいるのか、今後の書き込みに期待したいと思います。

さて、私はasura氏の書き込みは「サド−マゾヒズムの根底にはフロイトの言う『ニルヴァーナ原則』がある、という非常に画期的な視点」と受け取ったのですが、違うのでしょうか?



goback.gif