サドを語る・バックナンバー6

1998年7月3日〜10月3日



[No:162][Ichi]  [98/7/3  2:14:58]  
タイトル:悪徳の栄え

人間が自分の限界を承認せず、行けるところまで行く場合、どうなるのであるか?
悪徳の栄えのテーマは、これではないかと思いました。ジュリエットは、自然を信じ、神を冒涜しつづけるが、そもそも自然というのは内在的な神である。
つまり、我々のこれとは別の所におわす神の命令は、全て我々の自己発展の制約となるが、けれども内在神である自然は、けして我々をさまたげない。
#良心の声という概念も、私の理解では、「この世ならぬ、あちらの世界から届く」点で、神の命令と同じである。
サドは宗教を罵倒しつづけているが、彼はそれによって(多分自分の心の中に)「自然の意志への信仰」という新しい宗教を打ち
立てようとしていたのではないでしょうか。
#疑問の余地なくよりかかれる存在への信仰が、私の理解では宗教である。

[No:205][きゅう]  [98/8/23  1:40:21]  
サドにとって、牢獄に入れられたことは、
とても大きなことなのではないでしょうか。

サドは牢獄という閉じられた、外界から閉ざされた中へと入れられることにより、
自分自身と、自分自身だけと対峙することになった。

それにより、サドは、サド自分自身を越えて、
普遍的な人間としての部分へと行き着いたのではないか、
とそんなふうに思うのです。

サドの作品は、他を意識してはいないと思います。
結局向かうべくは自分自身、と読み取れます。

それも、牢獄に入れられた、入れられていた、ということが
重要な部分のではないか、と、私は思います。

[No:208][Ichi]  [98/8/25  6:15:2]  [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
サドは、確かに、自己意識を普遍的に追求しつづけて哲学者となった人です。ただ牢獄の孤独は、むしろ彼の哲学の汎神論的性格に現われています。汎神論世界は、普遍的な自己意識であり、だからこそそこでは自己がある意味で神であり、そして全てであるわけです。

つまり、彼の天才、普遍を見取る認識は、多分生まれついてのものだが、ただそれが彼の個人的事情としての投獄によって、その対象を自己意識に限定され、そのことによって、彼の汎神論的世界が産み落とされた、そしてこの点で、牢獄の孤独は彼の哲学において重要性を持つ、これが私の理解です。

#余談ですが、サドの作品は「繰り返しが多く退屈だ」と聞かれますが、まさしくプラトンの洞窟ですね。

[No:217][Ichi]  [98/9/2  19:53:48]  [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
掲示板をご覧のみなさまに幾つか質問です。興味を覚えた方は自由にご参加くださ
い。主題の選択は任意です

1.サドの著作には残虐性の礼讃が見られるが、これはサド本人のそれか、それとも
彼の創作した登場人物たちのそれなのか

2.サドは古典主義者か、それともロマン主義者か

3.サド本人の政治の理想は、悪徳の栄えのサン=フォンのそれか、それとも閨房哲
学の小論「フランス人よ!共和主義者足らんとせばあと一息だ!」のそれなのか。ま
たは別のそれか

4.いちばん大切な質問です。サドの哲学は、人間性の肯定の哲学か、それとも人間
性の否定の哲学なのか

試みまでに私の回答です

1.サドが残虐性を性的に好んだのか、それとも政治的に、つまり抑圧的な体制を好
んだのか、これが重要である。前者については、ほぼ疑いの余地がない。実生活では
鞭打ち事件で投獄の憂き目に遭っているし、想像の世界でも、ソドムなどを見ても、
彼の加虐嗜好が明らかである。後者については難しい。なぜなら晩年の彼は、革命政
府においてとある裁判官的職責を果たしているが、そのときの彼の振る舞いは、彼に
可能なかぎり寛容な態度に終始したものであったといわれている。しかし年をとって
緩んだので人間の例に漏れず彼もまた善人となったに過ぎないとも見れる。続きは、
3.で論じたい。

2.ロマン主義者である。彼は主観的であり、ハートを頭脳よりも一段高い位置にお
く点で、そうである。それから彼は空想の戯れを思う存分やっている。恋の罪の「二
つの試練」や、悪徳の栄えを見て頂きたい。ただし、まったくのロマン主義者でもな
い。たとえば彼は、名前は失念してしまったが彼の登場人物に、「英雄」とは要する
に強盗団の親玉だと言わせている。これは、どんなに逸脱してもロマン主義者の一人
であったゲーテなどには、考えられない言葉である。

3.政治哲学は、何に自己保存を許容するかによって異なる。サン=フォンのそれ
は、支配者階級の自己保存の哲学である。支配者階級というものは、論理必然的に、
支配される大衆を必要としているのだから、彼があらゆる手段を駆使して大衆を永遠
の大衆でありつづけさせようと試みるのは、彼の立場から見て合理的である。「フラ
ンス人よ!共和主義者足らんとせばあと一息だ!」のそれは、大多数の人間の賞賛に
値する、人間性の肯定の哲学である。そこでは全ての市民が自由である。それも主体
性・自主性を全面的に発揮しているが故に、真実に自由である。スピノザはかつて書
いた、自由な国家とは、自由な動機から善に赴くことのできる市民たちから成る、
と。これはユートピアであるが、これはサドのユートピアなのか。それとも、当時の
革命政府におもねった偽作なのか。じつは、ここの判断が難しい。しかしともかく結
論を出しておかねばならない。サン=フォンの政治哲学は、その他にも沢山存在する
他のキャラクターたちの政治哲学の、そのなかの一つに過ぎないが、「フランス人よ
!共和主義者足らんとせばあと一息だ!」のそれは、異質である。だから後者はたぶ
んサド本人の政治哲学なのではないかと私は思っている。

4.美徳の不幸はどんな物語なのか。人間性の否定の哲学として、キリスト倫理があ
り、ジュスティーヌはこれの化身である。人間性の肯定の哲学として、サドの倫理が
あり、本書の登場人物たちはおおむねこれの化身である。ジュスティーヌは、必然的
に、滅びを内包している。悪人たちは栄えていく。そこでサドの哲学は、人間性の肯
定のそれだ、と言い切ってしまってよいように思えてくる。だが、よく考えてみた
い。ジュスティーヌは、何と生き生きとして活動していることだろう。これは、頭だ
けで創作できるキャラクターでは到底ない。このジュスティーヌの生気が、素直な見
方を我々に思いとどまらせる何かにあたるのではないか。私は、サドの哲学は汎神論
である以上はけっきょく人間性の肯定のそれだと思うが、しかしそれに止まらない何
かも同時に感じている。

[No:218][なみ]  [98/9/4  10:5:2]  
はじめまして。なみです。主題に触れる前に、少しだけ書きたいと想います。一ヶ月前に初めてサドを読みました。マルキ・ド・サドという名前は知っていたものの、本物に触れてみた事はなく、かなり「恐くて」「硬くて」「難しい」イメージがありました。でも、読んでみた感想・・・「おもしろい!」「まじかよ、すげーことしてるよ、いいのかな・・・」「うわー、ひどくて見てられない、でも見ちゃう!」といったものでした。私が読んだのは、美徳の不幸、悪徳の不幸、新ジャスティーヌ、ソドム百二十日(いずれも河出文庫)だけですが、一介の読者として、とても面白い娯楽小説として読めました。むろん、その娯楽の中には、いろいろ考えさせられるセリフや思想がありましたが、サドという一人の作家を面白いと想った一人の読者として、(しかもすごい無知だよー)意見を述べたいと想います。
1.私は、サドについての知識がほとんどないので答える事ができません。ただ、サドは、一般の人が残虐といい、目をそらしてしまうような、一方的な残虐行為によるセックスを書いたという点で、すごい事だと想います。だって、そんなこと思っていても、人には言えないから。また、そのイメージを作るうえで、私がサドがすごいと思う所は、ジャスティーヌとジュリエットという二人の極端な女性を作った事だと思う。ジャスティーヌはすごい美徳を持つ人で、悪徳には決して屈しない。ジャスティーヌは、絶対に悪人の言いなりにはならない。けれど、悪徳とは正反対の美徳のために悪人に逆らう事は出来ずに、責めさいなまれる。これは半端な恋愛より、すごいHな設定だと思う。でも、美徳って何ナノカナートも思う。それは神に対する純粋な信仰で、絶対に彼女の中で揺るぐ事はないけれど、どうして神なのか、どうして聖書の教えに従うのかという事を、決して彼女は疑わない。昔のヨーロッパは、聖書の教えが社会の規則で、それがあたりまえ!と言われればそうだけど、ジャスティーヌ(美徳)に対するジュリエットたちの、美徳(=常識)を踏み潰して蹴倒してうんこしてくような罵倒ぶりは(それを残虐性というのかしら)、「美徳(=常識)って本当に正しいの?」って言うサドの問いかけにも思える。または、美徳を正しいとしながらも悪徳の栄える社会に対する矛盾に対する問いかけか。なんだか質問3の答えのようになってしまいました。
2.3.はわかりません。
4.人間性、と言うのが何かよく分からないので、正しい答えがだせないとおもいますが、(うちの辞書では「人間性=人がうまれつき持っているはずの、あたたかい気持ち。」とでました。)このとおりの意味だとすると、人間性の否定の哲学だと思います。
あたたかい気持ちは、生まれつき持っているはずなんて、どこにも書いていない。ジャスティーヌは、美徳を持っているけれど、彼女は生まれつきの温かい心があったわけではなく、聖書の教えに従う事を自ら選んだ少女だと思います。同じに生まれたジュリエットは、自由にしたたかに生きる事を選んだし。
だから、私の答えは、サドの哲学は、人間性と呼ばれる常識に対する否定の哲学だと思います。
長々と駄文をすいませんでした。

[No:219][Ichi]  [98/9/5  16:2:26]  [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
はじめまして&いらっしゃいませ、なみさん。

1.サドはその作品の中で、いわゆる「世間の評判」の空しさについて、繰り返し否
定をし罵倒を投げているのですが(たとえば悪徳の栄えの冒頭)、これは逆向きにし
て考えてみれば、サドが世間の評判を大いに気にかけていた、その現われと理解でき
るのかも知れません。

サドは哲学的な受け取り方をされるのですが、もちろんポルノグラフィーとしてのそ
れも成り立ちます。ですが、サドの考えたのは、たとえば、ではなぜ残酷なポルノグ
ラフィーというものに我々が惹かれるのか、これを逆向きにして表現し直せば、我々
の中にあって、残酷さを−喉が渇いた者が水を求めるように−渇望する何かが動いて
いるのだが、それは、何なのか。彼は、それをキッパリとした仕方で表現を致しまし
た。ですから、なみさんの心の中にもあるものが、サドの天才によって、紙の上にさ
らけだされている、だからじつは、なみさんは自分の心の中を探している・・・・の
かも知れないですね。

ジュスティーヌには、マゾヒズムが見られると実に多くの人が書いています。では、
私はどう見るかといいますと、彼女は、神様の情婦なのですね。彼女は、神様の前
で、自分を否定する。神様を思い浮かべることで、神様といわば一つになってしま
う。そうしてから、彼女は、神様とともに、彼女自身を好きなように弄ぶ。

ジュリエットは、アンチジュスティーヌとして理解されることもできますが、彼女
は、サドの理想を表現した、徹頭徹尾、肯定的な人物です。むしろ、ジュスティーヌ
の方が、ジュリエットの裏返しなのではないでしょうか。ジュリエットは、いってみ
るならば、鎖から解き放たれた虎です。残酷さをほしいままにする虎は、もちろん犠
牲として沢山の罪も無き羊を屠ってしまうのですが、しかし、痛ましいそんな残酷さ
でさえ、虎の本性のストレートな表現として見れば、やはり、そこに美しさを認める
こともできうる訳です。付け加えるならば、私は、「誤解」を恐れながら申し上げる
のですが、返り血を全身に浴びて淫欲をほしいまにするジュリエットを、上述の意味
で、美しいと感じる者なのです。

社会には、建前と本音があって、いってみれば、二重の現実の下で我々は暮らさざる
を得ないわけです。哲学者という人たちは、妥協を受け入れず、ただ一つの現実を追
求します。サドは、彼なりに現実を見出し、それを表現しました。私たちは、それを
どのように受け取るのか。狂人の妄想に過ぎないとして抑圧してしまうのか。それと
も・・・・・。

4.人間性を、建前の現実の下に理解するか、それとも、本音の現実の下でそうする
のか。ですがいずれにしても、「人間性と呼ばれる常識に対する否定の哲学」、なみ
さんのこの理解は正しいと思います。ところで、サドの翻訳を行った佐藤氏は、あと
がきの中で、サドの作品を、「神」の御業を、その悪徳と、その美徳の双方において
肯定する、「神」への信仰告白である、と理解しています。これは一見してみると、
不思議な解釈なのですが、ジュスティーヌの生気を思い浮かべてみると、それなりの
真実を指摘した解釈であるようにも思えてきます。いずれにしましても、サドは、サ
ディズムの下に狭量に理解されることを拒む天才であって、その理解は、様々な個性
が多角的に行う必要があるのかな、なんて考えています。

3.については、よりキッパリとした問いとして解釈し直すことも可能です。すなわ
ち、「ヒットラーの犯罪行為と、サドの思想との関係に連関を見ることは、妥当か、
否か」。

[No:220][ZAPPIE]  [98/9/8  1:6:2] [Comment Number-217] [http://www.jah.ne.jp/~piza]
遅ればせながら、ichiさんの問題提起にお答えしたいと思います。

1. サド文学における残虐性は、サド本人のものというよりも、登場人物のものだと思います。
本質的にサド文学の特色は、現実に対して直接訴えかけるメッセージ性を持った既成の芸術作品と異り、その文学は閉鎖的なサドの精神世界というか、ひとつの宇宙を現しているものであると考えます。
例えばサド文学のリベルタン達の描写には、サドを苦しめた国家権力、偽善的なキリスト教社会への皮肉と、自然への嫌悪に基づく人間性の否定、快楽の賛美などが、表面的に矛盾するという形で象徴されています。
サドの創作した悪徳のキャラクター達は、決してサド自身の行為や考えを代弁するものではないと思います。
例えば「アリーヌとヴァルクール」のブラモンは、「悪徳の栄え」「ジュスティーヌ」「ソドムの120日」等の作品に登場するリベルタン達につながるキャラクターですが、かの作品の中でサド侯爵自身が自己を投影しているキャラクターは、明らかにヴァルクールの方です。また、同作品の第3章で活躍するレオノールは後のジュリエットにつながるキャラクターでありますが、作品中ではブラモンに対立するキャラクターとして描かれています。
これらの表面的な矛盾点を解くキーワードは、サドの「自然の認識」にあると思います。サドは自然を嫌悪し、その自然から生まれた人間性というものを全面的に否定しました。
サド文学の登場人物はすべて、「邪悪なる自然に従うもの」「自然の偽善性に騙され不幸に陥る者」に分かれています。後者はジュスティーヌに代表されるキャラクターで、サド文学全てを通して一貫しておりますが、前者は更に「自然を理解しつつ誰も傷つけず社会に順応する者」が枝分かれし、更に環境的には「自然の悪性を巧みに体制に取り入れた社会」と「自然の悪性がもたらしたカオスがそのまま反映した社会」とが認められるように思います。(細かく分析していたら長くなりますので割愛します)
「邪悪なる自然」、サドが作品にこめた基本理念はこれひとつだと断言してもよいのではないでしょうか。そこから、サドが人生において、投獄などの経験を通して生まれた屈辱、怒り、憎悪などの感情が文学という媒体を通して吐き出され、サド文学の宇宙が生まれたのです。
サド文学における悪徳の思想は、彼自身の確乎たる哲学ではなく、牢獄のなかで自由を奪われてしまったことによる怒りがもたらした、彼の内部の中でも極めて感情的な部分の産物ではないでしょうか。そういった形で作られた作品が、哲学的に表面的に矛盾して見えるのは当然でしょう。しかしだからと言って、サド文学が哲学的に低級なものだというのではありません。逆に、この一見矛盾とみえる現象は、彼の根本にある「悪なる自然の哲学」を、大きくインパクトのある普遍的なメッセージとして昇華する重要な肉となっているのだと考えます。

ちなみにこの点で、No:205できゅうさんの言われた「サドの作品は他を意識していない。結局向かうべくは自分自身」と言う意見と、そこから「サドは自分自身を越えて、普遍的な人間としての部分へと行き着いた」と言う見解に強い共感を感じます。

また、No:218でなみさんの言われた「美徳を正しいとしながらも悪徳の栄える社会に対する矛盾に対する問いかけ」は的を得た意見だと思います。サド文学の矛盾は、あるいはそういった社会の矛盾を体現化しているものなのでしょう。

2. 感情によって究極を目指した文学ですから、むしろロマン主義に近いと思います。

3. サドの政治に関してはよく解りません。しかし、どちらかと言えば、「閨房哲学」の小論の方に近いように見えます。ただ、サドに本当の意味で政治の「理想」と呼べるものがあったかどうかは疑問です。サドは本質的にペシミスティックな思想家であり、彼が書いたものの中で最も「理想郷」という言葉に近い世界、「アリーヌとヴァルクール」第二巻の美徳の島「タモエ」でさえ、実現不能な世界であり、サドのペシミズムの裏返しであるという見方もできます。
故に、もしサドに政治の理想といったものがあったとしても、それはサドの「悪徳の栄え」等の究極の文学世界の視点から比べれば、「ある程度の妥協点をもって一応設定した政治上の立場」であったと思います。

もし、あくまでも「想像上でのサドの政治の理想」を聞かれているのでしたら、それはサン・フォンでも「閨房哲学」の小論でもなく、「アリーヌとヴァルクール」のタモエだと思います。

4. この問題は、1.の答えの中に既に含まれています。
完全な人間性の否定の哲学であると思います。

総括として
サド文学の「単純から複雑へ」また「破壊から創造へ」。様々な逆説と矛盾の中に潜む邪悪な自然の認識と完全否定の哲学。僕はここにサド文学の大いなるオリジナリティと、現代社会にも通ずる普遍的なインパクトを感じます。
サドの文学のペシミズムの中に、何を見出すのか。破壊の向こうに、我々は何を得るのか。そこに、今サド文学を繙く価値が宿っているような気がします。


以上、一サド文学の愛好者として、答えさせていただきました。
自分は普段は余りこういったことを考えながらサド文学を読んでいる訳ではないので、稚拙な思考もあるかと思いますが、気がついたことがありましたら遠慮なく指摘してください。

[No:223][Ichi]  [98/9/9  2:30:55]  [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
サドの作品は、哲学小説と表現されますし、哲学であるとともに文学であるのですが、
そもそも両者は一つです。両者を分かつ必要性を認めていないのですが、文脈に応じ
て、サド文学ともサド哲学とも呼ぶことに致します。なお、残念ながら、アリーヌとヴ
ァルクールは読んでいません。


1.サド個人は、残虐性を愛好したのか、否か

近代刑法学の父と一般に呼ばれているベッカリーアは、情熱についてこう述べました。

−大業績を生み、もしくは大犯罪を生むようなエネルギーを、大部分の人間は持ち合わ
せていないが、活動力ある政治、国民の自負心、公共の福祉のためのあらゆる努力の集
まりによって支えられているような国家では、このエネルギーが発揮されてかがやかし
い立派な行いとおそろしい犯罪とを同時にもたらすのだ。反たいに、国力が固定し、と
とのった法制のしかれた国家にあっては、このエネルギーは弱められ、盛時の形態を改
良するよりも、それを維持することに適するようになってしまうようだ。このことから
大切な結論が出てくる−−つまり、大犯罪はかならずしもつねに国家の衰退の証拠では
ない。

以上は、犯罪と刑罰のなかの「訴訟期間および時効について」に置かれている議論です。

設問:サドの文学世界は、サド個人の心の世界そのものであるか

回答:サドの文学世界は、自然の「愛(ジルベール・レリーの卓越した表現)」の認識
である。「愛(エロス)」は、自然のなかに、たえまない生成として現象する。「愛」
は、人間のなかに、情熱として現象する。サドの認識は、いつでも、「愛」の認識であ
る。「愛」を否定するものは、メフィーストフェレスであって、哲学者ではショーペン
ハウアーである。「人間が何を焦がれ求めて制限束縛に苦しんでいるのか、血の凍り付
いた君たちにはけして分かりはしないのだ!」、これはファウストの言葉でした。

「アントニオとロレンツァ」をご覧いただきたい。情熱の激しさが、主人公たちを自滅
させる。しかしながら、サドはけしてこの情熱をヒイキにしたり、かの情熱を邪険に扱
ったりはしないのである。彼は、情熱を重厚に表現していく。主人公たちは、行き着く
ところまで行ってしまうのである。カルロの情熱は、あの手この手を尽くすが故に、悪
であろうか。ロレンツァの情熱は、直裁であるが故に、善であろうか。サドの翻訳者で
ある佐藤氏が書いた、「ジュスティーヌの悲運は、彼女に同情する全ての読者を落胆さ
せる。しかし哲学者のサドは、そんなことは全然気にもかけてはいないのである」。ま
たサド本人が書いている、「悪徳を際立った色彩の下に描き出したといって、君たちは
私を責め立てるのか?」。

サドの文学世界は、サド個人の心の世界そのものであるかのように見える。だが、そう
ではない。彼の認識は、自然の「愛」の認識であり、だからこそ、普遍的である。心の
世界といえば、私たちが住んでいる各々の世界は、すべて各人の心の世界なのである。
しかしながら、個人性を突き破って、自然の原理を垣間みる人々が存在する。つまり、
プラトンの洞窟。サドが繰り返し認識を与える当のものを、私たちは認識することがで
きる。そのとき、影ではなくて、そのものを見届ける。それに成功した人々の前に、サ
ドの文学は、「愛」の文学として立ち現われる。「サドがその名を記したとき、すべて
は愛となった(ジルベール・レリー)」。回答終わり。


3.サド本人は、抑圧的な政治体制を愛好したのか、否か

サド本人の手紙を以下に引用します。先日見つけたものです。

−ひとつ、私の内心を探ってみましょうか。私の意見は、どのような党派にも組するも
のでなく、あらゆる党派の折衷です。私は反ジャコバン主義者で、彼らを骨の髄まで憎
んでいて、また国王を崇めてはおりますが、ただし、古い王政の弊害には我慢がなりま
せん。憲法の条項の大部分に賛同しますが、一部には反発を覚えます。貴族には彼らの
名誉を返してやるべきです。なぜなら、それを彼らから取り上げても何にもならないか
らです。また、国家元首として、国王があったほうがよいでしょう。国民議会は、なく
もがなの存在です。ですから、イギリスをみならって両院制にするのがよいでしょう。
そうすれば、二つに分かれた国民の階級が、その競争の結果として、国王の権力を緩和
し、抑制することになるからです。僧侶の階級は不必要です。彼らだけは何としても許
せません。以上が、私の信仰の告白です。いまのところ、いったい、私は何者であるで
しょうか。貴族主義者なのか、それとも民主主義者なのか。弁護士(ゴーフリディのこ
と)さん、教えてくれませんか。それというのも、私自身には、さっぱり分からないか
らなのです。

以上は、ジルベール・レリー「サド侯爵」のなかの「サドとヴァレンヌのベルリン馬
車」に置かれている手紙です。

サドは寛容主義者であったと見てよいでしょう。抑圧的な政治体制を好んだものは、サ
ン=フォンであって、彼本人ではなかった。第二次大戦期、フランスは、ヒットラーの
侵入を受けた。人間性が抑圧されていく、ただなかにあって、ジルベール・レリーはヒ
ットラーを激しく憎んだ。そして彼はサドの故徳を偲ぶことで、ヒットラーの狂気に耐
えたのでした(以上は、彼の「サド侯爵−その生涯と作品の研究」における逸話)。


以上は、一サド文学の愛好者として、お答えを致しました。なお、ジルベール・レリー
のサド伝は、ちくま学芸文庫から、ロレンツァとアントニオは、岩波文庫から、文庫と
して、それぞれ出ています。参照の折りに、ご利用ください。

[No:224][Ichi]  [98/9/9  16:19:27] [Comment Number-223] 
サドが牢獄の孤立した環境におかれて、自分を閉じ込めた人類世界の邪悪さに対して英
雄的な反抗を行ったと見ることは自然です。サド本人は、こう書いています。「この件
(ジュスティーヌ)でこの私を牢獄送りにしてくれた低能な東ゴート人(蛮族)ど
も」。また次のようにも。「苦しみの最たるものは、愚かな連中から散々にやられるこ
とだ(ヴォルテールからの引用)」(#)。しかしこうも考えられます。サドが戦いを
挑んだものは、カトー風の残酷で、粗野で、野蛮な道徳律に対してであって、人間の本
質を為す、「情熱」を、彼はどこまでも肯定したのではなかったでしょうか。

#「ガンジュ侯爵夫人」中の文学的覚え書きより

サドの登場人物たちは、みな情熱の肯定がいきすぎて他人の犠牲を出してしまいます
し、それが結果として悪事になります。彼らが、主体性を何よりも大切にしていること
は間違いありません。ですから彼らはみな誇り高いです。確固たる哲学に満たされて、
情熱を全面的に肯定します。

タイプとしての小悪党を考えてみます。こういう人は、主体性がありません。かれの行
動は、他人のありようとか、集団のありようが契機となって引き起こされます。たとえ
ば、彼が、ある人に対して聞くに堪えない陰口を叩くとします。その時点で彼を捕まえ
て反省を迫ったとします。彼は反省など致しません。それはなぜでしょうか。彼の意識
の中では、こうなっています。つまり、あの人が私に陰口を叩かせた(受け身的)、あ
の人が悪い(=彼にとって個人的に嫌な)人だから、私は陰口を叩かざるを得なくなっ
てしまった。だから私は全然悪くない。悪事はそのほとんど全てが人間の弱さから犯さ
れると申します。一般の悪事は、上述の種類であると思います。

サドを読む人は、悪事を読みたいというよりも、たぶん、主体性を回復するために読ん
でいるのだと思います。それを、意識しているかどうかは別として・・・・。

ところで、総括としては、佐藤先生は、「健康的なサディスト」(#)と、サドのサデ
ィズムを表現しておられますが、私も同感です

#「ジュスティーヌ」中のあとがきより。

最後に、少しそれますが、文学理解は、評価される文学そのものと、それを評価する人
の個性との総合で出来上がると考えています。必要なことは、ですから、さまざまな理
解が提出され、共有されることではないかと考えています。

以上、いろいろ書いてみましたけれども、自信はあまりありません。ひきつづいてみな
さまのご参加をお待ちしています。いろいろな視角からのご意見をお伺いしたいです。



[No:230][ZAPPIE]  [98/9/16  0:37:36] [Comment Number-224] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
僕にとってのサド文学の精神というものは、ある種二元論的な、ひとつの究極のエッヂの果てに、真っ向から対立する概念がつがなっている、究極の哲学だという基本理念があります。

彼の文学活動は牢獄の中で、ひたすらその内面へ内面へと向かっていった結果、普遍的な人間性の真理に到達した。超個人的故に、200年経った現代にも通じる普遍的な影響力を持っていると言えるのではないでしょうか。

サドの思想は極端の極みであればこそ、その否定性・ペシミズムを究極まで掘り下げねば、その真価は見えてこない。
僕はこれが、サド文学の哲学が直接現実社会に大して具体的なメッセージ性を投げかける既存の文学と全く異る点であり、サド文学最大のオリジナリティであると考える所以です。

ただ、僕はサド文学の愛好者であり、サド哲学の研究者ではありません。(素人としても、否です。)
先に言った基本理念は、僕が今までの人生でサド文学に親しんできた上で、常に頭にあり、次第にはっきりと大きくなっていった、言わば自分がサド文学を読むうえでのキーポイントの様なものです。

ですから、他の歴史上の哲学者や文学者と比較・論じることはできません。
しかしそういう点で、ichiさんの意見は勉強になります。ichiさんの意見は、僕が今まで考えたことの無かった視点から、サドの存在を見直すことを教えてくれます。

ichiさんの引用したベッカリーアの言葉は、サドの生きていたフランスの革命時代に重なるものを感じます。
サドは犯罪者としては三流に終りましたが(幸いなことに)、強大な哲学の精神として輝かしいエネルギーを放ち、その光は現代にまで我々に啓蒙の光を照らしている。まさに、その時代の環境が作りだした、驚異の精神だっのだと思います。

個人的に、むしろ今は、サドの精神が現代に息づいている異常心理や、犯罪、サブカルチャーなどを考察するキーワードになりうるのか、または逆にそれらがサドの精神を追究してゆくうえでの如何なるキーワードとなるのか、に興味があります。

サドの政治思想ですが、澁澤龍彦全集でのサド研究家の橋本到さんのインタビューに、サドの政治活動に関して

  「今日では、サドの不器用な対応、揺らぐ政治信条、そして、
  追いつめられては首をつなぐために必死になって愛国者を演じ
  ている様子などが、時代との照合によってより明らかにされて
  きています。」

と言われてます。政治的にサドは、かなり日和見な部分があったようです。
よって、サドの政治的立場を完全に把握するには、サドが政治に関して書いた文書、政治活動の全貌を通して考察してみなければ、難しいのではないでしょうか。
自分はサドの政治的側面は余り興味が無かったこともありますが、サドの文学や伝記でのサドの政治活動をざっと読むかぎりでは、やはり明確にサドの政治思想は解りませんでした。
果してサドは政治に対してどの程度の深い思い入れがあったのか、まずそこから考えなければならない様な気がします。

サドの「愛」、それは、究極の「憎悪」の裏返しであると考えます。
何の? 自然。「邪悪なる自然」。しかし、「唯一の絶対なる、確かな存在」(=神)
しかし、サドの愛情表現は、人間社会を否定し、破壊することでしかその文学において、具現されることはなかったように思います。(少なくとも一連の代表作のなかでは)
自分がサドの精神を、あくまでも邪悪なる自然の嫌悪、人間性の完全なる否定として認識する所以もここにあります。

漠然とですが、自分は、ichiさんの言う「サドの愛」と、僕の唱える「サドの完全なる否定精神」は、同じ意味ではないかと思っています。「アリーヌとヴァルクール」には、サドの変らぬ精神が、「悪徳の栄え」のような作品とは極めて異る形で文学上に現れているのが解るはずです。ここに、ひとつのキーポイントを見出します。
ぜひ、「アリーヌとヴァルクール」も読んで、感想を聞かせてください。

ichiさん曰く「サドは人間の本質を為す『情熱』をどこまでも肯定した---」
これは自分も共感します。この「肯定した」の部分を「認めた」と言い替えたら、どうなるでしょう。
つまり、サドは「人間のどうにもならない『情熱』という感情を、認めざるを得なかった」。そしてその向こうに、絶対的な存在「自然」があった。

サドはその作品中で、「自然」を論拠に、宗教が創った既成の道徳観念を破壊した。しかしまた、人間の中に宿る最大の自然の産物「情念」というものを、認め、受け入れた。しかし、自然を、人間性を肯定し、賛美したとなると、まだ足りないような気がします。
ここから、サド文学の最終的な終着駅である、絶対的な「個」の確立、主体性の獲得は、決して既成の博愛の精神では語れないのではなかろうか。

結局、僕のあくまでもサドの精神を破壊と否定とペシミズムの極地とする考え方は、自分のサド文学の「解釈」ではなく、サドの精神を追究する上での、自分の選んだ「姿勢」なのではないか、と、これを書きながら思いました。

とりとめの無い文章になってしまいましたが、また色々考えて書きこみたいと思います。
皆さんの意見をお聞かせください。

[No:231][Ichi]  [98/9/16  21:31:3]  
ルクレティウスの、彼がエピクロスに捧げた詩です。ご賞味下さいませ

宗教の残酷さに踏みにじられて
きたならしく押し潰されて人類の営みが
地上に病み疲れ果てて涙にぬれて横たわったとき
そして高い諸球の天上から
宗教の神が恐ろしい顔を出して
滅して消え去るべき人間の上に降りたとき
一人のギリシア人がその神に
反抗のまなじりをあえて上げ
はじめて立ち上がって挑んだのだ。

神神の業火のものがたり、恐ろしくささやく
天上も、彼を鎮めはしなかった
その魂の決意はますますたかぶって
自然という固く閉ざした扉をば
はじめて打ち破ろうと決意させるだけ。

そこで彼の烈しい理性の力が勝利し
燃えさかる世界の扉をはるか越え
はかりえぬ宇宙を遠くまで
心に収めつつ進んだのだ。

そこから彼は哲学者として、なにが
存在し得るか否かの知識をば
われわれに持ち帰って、究極は
いかなる原理によって万物が、かぎられた
力と境界石とを持つのかを教えた。

だからいま宗教は、人間の足下に
なげだされて逆に踏みにじられて
われわれは天高く彼の勝利を仰ぐのだ。

[No:233][Ichi]  [98/9/18  20:32:43]  
「サドの思想は極端の極みであればこそ、その否定性・ペシミズムを究極まで掘り下げ
ねば、その真価は見えてこない」。質問ですが、「極端」とは彼のキャラクターが各々
の立場を首尾一貫させたその徹底ぶりでしょうか。また「否定性・ペシミズム」とは個
の徹底による支配・被支配の関係(=社会)の排除でしょうか。

次に、各々の個の肯定は、各々どのような社会を帰結するか(=政治哲学#1)。サドは
首尾一貫させ、決着をつけずに放置します。「これは大変なことになった(佐藤氏の表
現)」と私たちは感じる。そこから先を問うてみたいと考えています。別個に彼本人の
政治哲学を色分けしてみようかとも思いましたが(ルソーからヒトラーの系列もしくは
ロックの系列のたとえば何れか)、こちらは取りやめます。

最後に、サドのエロスの認識は、スピノザの神への知的愛#2と同一です。エロスは、言
葉がないのですが、「生成」とも読み替えられます。サドの超個人性は、彼が認識によ
ってエロスから借り受けた普遍性によって、それであると考えています。

#1:彼の属した政治党派とか、政治的な実際行動は、その解明の参考程度に考えている
訳です。
#2:「倫理学」第五部定理十六

アリーヌとヴァルクールを読み終えた時点で、また書きますね。

[No:238][ZAPPIE]  [98/9/21  23:52:25] [Comment Number-233] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
サドの極端さとは、ichiさんの言われた「彼のキャラクターが各々の立場を首尾一貫させたその徹底ぶり」も含めて、サドという人物の芸術活動全般に言える特質だと思います。
それではサドの「否定」とは、「個の徹底による支配・被支配の関係(=社会)の排除」であるか?
サドの哲学が最終的に個の確立、徹底したインディヴィデュアリズムに帰するのは確かです。彼の否定精神が主に、人間が人間を支配する愚かさ、法律、国家、宗教を攻撃したことも確かだと思います。
しかし、具体的にサドがどのような社会を理想としたのか。政治的にどのような思想を持っていたのかは、解りません。これは、逆に色々な方々の意見を聞いてみたく思います。
サドはその文学において破壊し、否定するばかりで、ひとつも理想の社会と言ったものを提示したことはなかったか? いや、「アリーヌとヴァルクール」の第二巻の美徳の島「タモエ」という王国があります。しかし、これは実現不可能な理想郷であり、先にも書いたように、サドのペシミズムの裏返しであると言う見方も出来ると思います。綿密に言うと、サドは本当に理想の社会の在り方を描こうとしてこの「タモエ」を書いたのだが、サドの思想は理想の社会を具現する哲学として機能しない体質の哲学であったが為に、この「タモエ」の様な異様な国家が生まれたのではなかろうか。
それではサドの徹底した個人主義とは、それまであった「自然は善であり、快楽に生きることは善である」といった能天気なヘドニズム思想を厳正に再考し、また「自然は悪であり、人間の本質は悪である。よって、それを統治する法が必要である」と言った、法によって人が人を支配する体制を批判した、この矛盾点から出発します。
つまり、常に強いものが人の上に立ち、自分たちに都合のよい法律を作る。物理的に強いものと弱いものに分かれるのは自然の摂理であり、その人間を内側から突き動かすものは、邪悪なる自然からもたらされた情念である。
それでは、哲学者が政治家になり、万人の幸福を考えた社会を作ったらどうなるか。これがある意味では「タモエ」であるとも言えます。
しかし、「ジュスティーヌ」や「悪徳の栄え」等の作品が教えてくれるものは、如何なる状況にも決して自己を失わず、屈強なる精神と判断力で、環境に打ち勝つ個の確立であり、これこそがサドの精神から我々が学び得る最大のポイントであると思います。

以前の書き込みと少々重なる部分も多いかと思いますが、また、ichiさんの発言のお返事になっているか解りませんが、何卒、御容赦ください。

ichiさんの「アリーヌとヴァルクール」の感想、楽しみにしております。

[No:245][Ichi]  [98/9/25  19:33:45] [Comment Number-230] [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
サドの方法は、身体感覚の明晰な認識と総括できるでしょう。(私の述べた)サドのエ
ロスの認識とは、すべてが身体感覚であるかに感じられるという意味です。これはキリ
スト教的な博愛とは全く異なる考え方であるわけです。>Zappieさん

−サドの主観性が覆いつくし、彼の歌の響き渡る、その領域こそは愛であり、彼の目に
は永遠のエロス的な合一の表象なのだ。それは血まみれの夢、夜明けとして狂気じみた
大胆さで表現されねばならなかったのだ。主人公たちの悪の所業も、あまりに魅惑的な
言葉で語られるので、それはもはや音楽でしかありえない・・・・「あの娘を墓から出
して、あの可愛らしいちいさな美しい顔の上で、死の翳りが色褪せない間に、あたしは
あなたに何してもらいたいのよ・・・・こわい?」。サドがその名を記すとすべては愛
となる。

上はレリーの文章ですが、私とほぼ同じ考え方を語っているように感じます。

サドが普遍的であるとしたら、彼はどこからか普遍性を借り受けて来なければなりませ
ん。なぜなら彼という一個の人間は、やはり一個の人間であるのみだからです。身体感
覚というものは、それが非常に明晰に判明に認識されるとき、普遍的であるわけです。
より具体化しますと、まず表象の明晰な認識が先行し、純粋表象としての(統一的な)
世界を認識し、そののちに、純粋表象に自分の身体感覚を結合することによって、すべ
てが身体感覚であるかに感じられる訳です(なぜなら純粋表象は分離しておらず一であ
るから)。ですから、私の述べるサドの普遍性とは、イデアに結合された身体感覚を指
しています。

この見地からサドを読んでいきますと、彼の最高傑作は、ジュリエット物語であること
になります。「その領域こそは愛であり、彼の目には永遠のエロス的な合一の表象なの
だ」、そしてそれはジュリエットであるからです。先に「ジュリエットはサドの理想の
肯定的な表現だ」と申し上げたのはこの意味です。さらに、佐藤氏の次の言葉も、私の
それと少なからず気脈を通じた考え方の表現と感じます。

−しかしサドの場合、攻撃性と性欲が合致するのであろうか。訳者は必ずしもそうは思
わない。精神の高揚を性器で表現しているだけなのである。この点を見誤るから、サド
は誤解され、サドのエピゴーネン達は暴力と性とを結び付けて、独りで悦に入っている
のである。


[No:253][ZAPPIE]  [98/9/28  1:5:51] [Comment Number-245] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
自分の解釈におけるサドの普遍性とは、どこから借り受けてきたものでもなく、サド自身がその文学活動において自分の内面へと掘り下げていった結果、到達したある種の人間性の真理であると考えます。ichiさん曰く「彼という一個の人間は、やはり一個の人間であるのみ」、その通りですが、それ故に、彼は一人の人間として彼個人の利己主義を究極まで押し進めた揚句、普遍的な混じり気のない人間のむき出しの本性を描くに到ったのだと思います。「むき出しの本性」とは、言葉を変えるならば、唯一「確かなもの」「絶対的なもの」。その根源的なものが自然であり、その法則に全面的に支配された「情念(=欲望)」だった訳です。
この自分の基本的なサド文学の解釈から考えると、ichiさんの使われた「どこからか借り受けた」という表現に少なからず違和感を感じました。しかし、よく吟味してみると、「サドが普遍的であるとしたら、彼はどこからか普遍性を借り受けて来なければならない」→「認識によってエロスから借り受けた普遍性」→「身体感覚の明晰な認識によるエロスの認識」という解釈は、ほぼ同じ方向性を示しているように思われます。
ただ、普遍性とは人間性や宇宙万物の真理として全てに通じる深い概念としての普遍性であり、「身体感覚」とはそれに到るまでの方法論でしかない様に思えるのですが、如何でしょうか?
これに関しては僕のichiさんの意見の認識不足かも知れません。

ichiさんの引用されたレリーの言葉ですが、どの著書の誰が訳出したものからの引用でしょうか。自分の手元にある筑摩叢書172「サド侯爵/その生涯と作品の研究」(ジルベール・レリー著、澁澤龍彦訳)では、同じ個所だと思われる部分は

「サドの主観性が視界を覆いつくす領域、---それこそは 欲望 であり、(中略)エロティックな結合のイメージである」

と訳されております。ichiさんの引用では「愛」の所が、僕の本では「欲望」となっております。原著を持っていないので元の言葉が「desire(欲望)」なのか、「amour(愛)」なのかは解りませんが、「欲望(=情念)」であると、自分の解釈により一致するものがあります。

「サドが署名すると、この世はすべて愛になる」

これはレリーの名言ですが、大変興味深い言葉だと思います。一般的に言って、「愛」という言葉はサドという人物像におよそ懸け離れた概念に考えられています。この言葉は上記のレリーの論文の最後に、ポツリと唐突に現れたひとことですが、サドを愛するレリーの心情的なものが象徴されていると言えないでしょうか。それまで、サドのエロスと悪徳に満ちたサド文学に関する論文を綴ってきたレリーが、論文の最後をこの言葉で締めているのです。これは最終的にサドの思想が到達する人間存在のより幸福なる姿に、サドの思想を敬愛するレリーの心情が融合した宝石の言葉なのではないでしょうか。

余談ですが、素朴な疑問点で、「暴力と性とを結び付けて、独りで悦に入っているサドのエピゴーネン達」とは、佐藤氏は具体的にどの種の人達の事を言っているのでしょうね?
(その中には単なる「誤解」のひとことで片付けてしまうには面白くないものあるような・・・・気がします)

[No:254][Ichi]  [98/9/28  17:24:7] [Comment Number-253] [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
普遍性とは、私たち人類が共有しながめる世界に遍く在るとある何かであって、万有の
究極原理とは別と理解しています。

身体感覚は、現に与えられたそれとして眺める限りは、個体の死とともに消え去りま
す。では何が普遍的でありえるのか。知覚表象がそれにあたると考えています。サドは
個体としては完全に消滅しました(と哲学の立場からは私は考えます)。けれども彼の
残した文学作品は残されており、かつてそれに結合されていた彼の身体感覚もある意味
で、ともに残されている。なぜならば私たちが彼の作品を読み直すその度毎に、かの結
合がいくばくかは蘇るからです。

さらに哲学を超えて先へと行けば、そこには普遍的な知覚表象に結合した普遍的な身体
感覚の持続を見取る可能性があり、そして普遍的な知覚表象が仮にイデアの直接的な影
であるならば、さらに限界を乗り越えていき、イデアと結合したエロスの実在を探る可
能性もまったく否定できる訳ではありません。

続いてレリーの文章ですが、先に載せたものは私の改竄です。どうも勇み足で軽率であ
ったと反省しています。ですから渋澤先生の翻訳が当然のことながら優先します。

私の読みを出しておきます。まず「日輪」これは世界の実体であるエロスと解します。
なぜなら「彼の目には永遠に新しく」。「エロティックな結合のイメージ」曖昧な文で
すが、エロスと結合したイデアと解します。続けます。「極悪非道のことどもも、もは
や美しい音楽としてしか聞こえない」ここで、エロスを欲望でなく生成として見取りま
す。欲望は飢えですから美しくはないし、また飢えとは犠牲への関係ですが、エロスは
一なのだから生成である訳です。最後に「サドが署名をすると、この世はすべて愛にな
る」私はこの文章を、サドが己の身体感覚を見つめていくうちにそれがエロスとなる、
主観と客観との合一の境地(=サドの主観性が視界を覆い尽くす、云々)と解します。
「ラ・コスト」の章のレリーの詩もご参考下さい。以上です。

最後に、佐藤氏からの引用の実質は「精神の高揚を性器で表現している」で足ります。
前後は文脈の保存である訳です。問題の箇所ですが、下の引用も併せご覧ください。

−サドはサディズムの元祖とされているが、あらゆる残酷な光景を描いていても、彼自
身はそれほどひどいことを実行していないのである。「現代性事学(藤本儀一、ファラ
オ企画)」、「性倒錯の世界(沢登佳人・沢登俊雄、荒地出版社)などには「サドは猥
褻、獣姦、虐待、暴行、殺人などの限りを尽して(Ichi注:(^_^;))、十四年間の獄中
生活を送り・・・・」と述べられているが、サドにとって迷惑なことである。訳者は、
癇癪気質で肛門期にリビドーの発散を失敗したサドを、健康的な観念的サディストだと
考えている(ジュスティーヌ物語のあとがきより)。

真意は佐藤先生本人にお伺いせねば判然としませんが、私の解釈では「残酷さをながめ
る快」と「残酷さを行う快」との区別が提起されており、これを見誤ることの危険性が
説かれています。ですがやはり未知谷のジュスティーヌ物語のあとがきを直に読んでい
ただくのが一番かと思います。


[No:255][ザッピー浅野]  [98/9/28  22:38:44] [Comment Number-254] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
前回の書き込みで「宇宙万物の真理」などと尊大な言い方をしてしまいましたが、要するにサドが常にその哲学の論拠としている「自然」の事を言いたかったのです。サドが自分の世界観で全てを理解するうえで、唯一の法則、絶対的な存在として、そのような言い方をしました。自然が念頭にあって初めて、サドにとっての「欲望」があり、「感覚器官」があり、そして「極端(excessive)」が有ると思っています。極論を言えば、サドにとっての理想の在り方とは、各々が自然の法則を理解することから始まるのではないでしょうか。ジュリエットは自然を理解したからこそ悪徳の生き方を選び、ジュスティーヌは自分が最後まで自然に操られたマリオネットであることに気付くことなく、雷によって自然の制裁を受けたのです。
サドは我々にこの啓蒙を与える為に、自然を壮大な悪のパワーとして捉え(これにはサドが自らの情念によって被ってしまった不幸な牢獄生活に対する苦悶といった、感情的な部分が衝動となっている)、自分の罪を否定し、自然の罪をとことんまで告発することで己の哲学を完成させたのです。
そしてこの究極の破壊活動の果てに辿り着いたのが、普遍的な自然の法則に基づいた個人主義である。これが僕が言いたかった「普遍的なもの」「宇宙万物の真理(←この言葉は些か自意識過剰でありました)」なのです。

最後に引用された佐藤氏の引用文に関しても、釈明したいことがあります。

> 最後に、佐藤氏からの引用の実質は「精神の高揚を
> 性器で表現している」で足ります。

この点は自分もわきまえておりました。
実は前回の書き込みでこの「精神の高揚を性器で表現している」に関するコメントも書いたのですが、思うところがあって、寸前で削除したのです。その理由は、悪戯に書き込みが冗長になってしまうことがひとつ。第二に、自分のサド文学の解釈を主張するのなら、自分で文献から引用文を探すべきで、他人が引用した言葉に自分の解釈を突っ込むのは正当な論議とは言えないと思ったからです(自分はそのような事を既に直前でやっていたりするので)。

どうでもいいコンテクストにコメントを書いたのは、実は一見「誤解」と見えるサド的な行為の追随者の中に、自分の興味有るサド研究の分野が存在すると思われたので(自分の[No:230]の書き込みの7段落目「個人的に・・・・・」参照)、その先行きのきっかけ作りの為に、あえて「余談として」コメントさせていただきました。余り気にしないで下さい。
決して自分があの引用の本質をそこに捉えているのではありません。

サドのエロスの認識に関する論議も、自分なりによく吟味してみたいと思います。

以上、今回は釈明文でした。

追記:
サドの犯罪に関して、「彼はそれほど大したことをしていない」という意見は、レリーを含めた渋澤以前のサド研究によく言われる意見ですが、これは以前より再検討する必要性を感じております。

[No:258][Ichi]  [98/9/29  20:7:49] [Comment Number-255] [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
サド文学のメッセージ性について。彼は、倫理的な要求を私たちに突き付けているので
はないと見ています。彼は、人間の満たされない欲望というものを描き出した訳であり、
それをどう受け取るか、これは読み手である私たちの側の問題です。

哲学者ピタゴラスは、人間には競技をする人たちとそれを眺めて興じる人たちがある、
といったとのことですが、サドは後者の立場から前者の人々に向けて鏡を立てかけてい
る、ともいえます。

やられた!と叫んで彼を非難したり、鏡に布をかけたり、その前で満足げにポーズを決
めて記念写真を撮影してみたり、様々でありますが、サドは「残酷になれ」と私たちを
けしかけているのでもなく、それを非難しているのでもない。それでもメッセージ性を
あえて汲み取るならばそれは「自分をよく理解せよ」に尽きると考えます。

#鏡は、競技する者である限りのサド自身にも向けられている。

私の意見は、ここに至り、Zappieさんのご意見「サドにとっての理想の在り方とは、各
々が自然の法則を理解することから始まるのではないでしょうか」と合一すると考えて
います。


#補足

−自然は飢えている。人間性にはけして満たされない飢えが内在しているから。さらに
自然は悪である。仮に善とは望みの充足であるならばけして満たされない飢えこそ絶対
的な悪に他ならないから。人間は、飢えと向き合い己の存在形式を選び取らねばならな
い、自発的に、主体性を発揮して。サド文学の究極の意義、それは私たちの存在への自
覚への到達に他ならない。

これが、私の、Zappieさんのご主張に対しての理解です。誤解がありましたらご指摘下
さい。

[No:263][ZAPPIE]  [98/10/3  13:17:31] [Comment Number-258] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
「自然は飢えている・・・・」とのichiさんの僕のサド観のご解釈ですが、言葉に若干の違和感というか、ズレは感じるものの、概要では誤解無く理解して頂けているものと感じました。違和感を感じる言葉というのは、「飢えている(カオスであり、混乱である、と言い替えると適合する)」や、「仮に善とは望みの充足であるならば」等です。
サド文学にとって、悪徳とは自然であり、絶対的なもの。美徳とは反自然であり、不確かなもの。人々が美徳と呼んでいるものは法は習慣によって一時的に定義された幻想であり、真の意味において美徳などというものは存在しない。仮に美徳が存在するとすれば、それは小さな悪徳の一種としてであり、言わば中途半端な悪徳なのです。

「悪徳の栄え」のリベルタン達の姿はサドにとっての理想の姿、完璧な人間達である。しかしそれは彼らが悪徳に生きるからではなく、勿論サドがそれらの残虐行為を肯定している事ではない。彼らは「サド的世界」の住人であり、その「サド的世界(彼等自身を含む)」を理解し、「サド的世界」に打ち勝った超人たちなのだ。では「サド的世界」とは、紛れもないサドの自然の告発である。そこには、現実でサドと社会との間に作られたミスマッチな状況を、埋め合わせる為に必然性があったからである。自分はこのように思います。

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