サドを語る・バックナンバー7

1998年10月3日〜1999年1月28日



[No:263][ZAPPIE]  [98/10/3  13:17:31] [Comment Number-258] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
話しは変りますが、英語版メール紹介コーナーに、面白いメールが届きました。こういうタイプの方に討論に参加して貰えると、また違った形で盛りあがると思います。「サドマニア」にはこの手のメールが非常に少ないことを残念に思います。以下に訳を引用します。

  人を拷問して楽しむなんて、とんでもない変態だ。
  サドは妻子がいたにもかかわらず、家族との生活
  には全く無頓着。売春婦と放蕩に耽り、自堕落な
  生活を人々にも奨励して何年も投獄された。バス
  チーユの窓から大衆に向けて放った演説は、バス
  チーユ襲撃につながった。だから多くの人々の命
  が犠牲になったフランス革命も彼が原因だ。こん
  な奴は、神のように崇められるよりも、人々に軽
  蔑され永遠に地獄の火に焼かれる方がお似合いだ。
  こんな奴を尊敬する者は、人間のクズに違いない。

皆さん、どう思われますか?

[No:264][Ichi]  [98/10/4  1:56:29] [Comment Number-263] [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
ベートーヴェンの作曲、サドの文学を、誰も創り上げることはできません。私は哲学を離れて漠然とですがこう思います。サドの作品は超人的であって、とても人間が独創できる類の作品ではないはずだ(#1)。出来上がったものを見て、こんなのは俺にでも書けるというのはコロンブスの卵。そんなエネルギーは誰にも無いでしょう。

サドはその全作品を通じて古代を賞賛し、キリスト教を活力を失った停滞、逸脱として捉えているもののようです。サド、キリスト教、彼の作品の関係を、私は映像で表現してみることにします。ドナチアン・アルフォンス・フランソワという大河があり、その流れをさえぎる散在する大小の岩(=キリスト教)がつくりだす幾筋もの様々な流れ(=彼の非合法的作品群)。

それからサドの悪行の是非ですが、私は罪刑均衡こそが正義であり、行き過ぎた処断は要するに客観的にながめれば不当な抑圧でしかなく、それそのものが一個の犯罪行為を形成するものと見ています。それに有為の人間は犯罪者ともなり、立派な行為をなしもする意志であって、これはベッカリーアの哲学者としての慧眼の見抜いたその通りだと私も共感するものです。

#1:文学者のゲーテならばダイモニオンの仕事であると評したに違いありません。

[No:266][ザッピー浅野]  [98/10/4  12:45:47] [Comment Number-264] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
自分が[No:263]で転載したメールは、かなり偏った思考に満ちており、正当な批判には思えません。サドの演説がフランス革命を導いたというのは確定した事実ではありませんし、またそうだとしても、革命は歴史の必然であって、その犠牲者達が全てサドのせいだというのは極論です。
ichiさんのおっしゃる通り、サドの作品はサドにしか創造しえなかった貴重な文化であり、サドの犯罪行為はそれらの価値を失わせるものでは無いと思います。

只、こういった反サド的意見は、時には必要かと思います。しかしこの手の投稿は少なく(当サイト開設以来二度目)、またあったとしても、「書き捨て」が多いので、正当なサド派vs反サド派の論争などは遠く望めそうにありません。

特にサド研究は、アポリネールやジルベール・レリーのような、サドを悲劇のヒーローとして半盲目的に神格化してきたサド賛美に始まっており、サドを美化しすぎた渋澤以前のサド研究には有る程度見直さなければならない必要性を感じています。バックナンバーでも取り上げられていたとおり、サドの英雄化に確たる必然性があったことは確かであり、それは否定されるべきではありません。しかしサド文学が立派な18世紀の啓蒙思想のひとつとして考えられるようになった現在では、サドの否定的な意見も徐々に取り入れクリアしていくことも意義あることだと思います。
サドはその人生において多くの悪行を犯してきたことは確かです。実際に殺人を犯した可能性も否定できないといいます。自分の不始末を召使に擦り付け、牢獄に放り込んだ事もあります。渋澤氏が「サドの犯罪は大したものではない。子供の悪戯の様なものだ」と言っていましたが、そうは思えず、例えそうだとしても、自分は犯罪に大小の区別を付けること自体嫌悪します。「この程度の犯罪なら大したことない」と言うのをサド賛美の論旨に加えるならば、サドが殺人を犯したことが明るみにでた場合、その人のサドへの敬意は絶たれるのでしょうか?
文学史に残るサド侯爵とは、「ジュスティーヌ」「悪徳の栄え」「アリーヌとヴァルクール」「ソドムの120日」等の傑作を書いたサド侯爵であり、「作品の哲学の価値を落とす程度には悪いことは多分していない三流犯罪者・サド侯爵」ではありません。
「犯罪」とは「行為」であり、その裏付けとなるものはやはり「精神」です。犯罪という「行為」がサド文学の「精神」を侵食するものではなく、同じ精神の産物であると思います。それは犯罪の大小によって作品の価値が変ったりするものではありません。

物理的な面では、サドを文学者足らしめたものは、犯罪というよりも、サドの「不器用さ」にあったと思っています。サドの時代の貴族社会で、サド程度の放蕩行為は普通に行われておりました。サドを最終的に獄中に追いやったものは、サドの自分の放蕩の不始末、そして他の貴族とのコミュニケーションの欠如であったように思います。「悪徳の栄え」のリベルタン達は、その強固な意志と強靱な肉体、狡猾さという点で、実際のサドとは懸け離れた強豪達であったと思います。

それでは、サド自身が何よりも秀でていたものは何だったのか。
それは何よりも、底を知らぬ壮大な想像力(或は創造力)であり、それを放出するクリエイターとしてのパワーであったのではないでしょうか。

[No:271][Ichi]  [98/10/12  4:49:21]  
サドは有罪か?

サドの罪と称されるものを明らかにし、そのあとに、個々の価値付けに移ります。まずサドの罪と称されるものを下に配列してみましょう。

・サドの非合法的著作
・サドの非倫理的行為

サドの非合法的著作をさらに分類します。

・残虐行為の描写
・世間一般の倫理の否定

非倫理的行為に関しては以下の通り。

・性的放縦
・金銭的放縦
・残虐行為
・社会秩序に挑戦する著作の公表行為

さらに分類可能ですが、お気づきの際にはお知らせ下さい。続いて個々の価値付けに移ります。まず「非合法的著作」から検討しましょう。

・残虐行為の描写

有罪:サドは己の残虐願望を、彼の作品の登場人物たちの残虐行為に託して表現した。従ってサドは己の悪徳を彼の作品において暴露していると考えられ、その罪はきわめて明白である。

無罪:サドはなるほど残虐願望を持っていた。そしてそれを表現したのも本当である。しかしながら、サドの願望はさしあたって文学表現という結果を採ったのであり、「その限りでは」彼は有罪ではない。

・世間一般の倫理の否定

有罪:そもそも悪徳とはなんだろうか?私たちの倫理を破壊する倫理に他ならない。サドはあからさまなまでの悪徳の権化なのであり、それを隠しもせず公表しているではないか。

無罪:サドはけして私たちの倫理を否定せず、それを明らかにしているだけである。私たちの倫理の帰結が、私たちの立派な道徳的社会であるならば、まさしく帰結から推定して、口先で何といおうとも私たちの倫理こそが悪徳である。

続いて「非倫理的行為」に移ります。

・性的放縦

有罪:彼は破廉恥漢に他ならない。彼の逸脱行為、鞭打ち、不自然な性的結合・・・そのすべてが彼の変質性を証明しており、しかも彼自身それも恥じもしていないのだから、恥じを恥じとも感じない、破廉恥漢という他ない。

無罪:あくまでも感性の相違にすぎない。私は彼のいわゆる「逸脱行為」をそもそも破廉恥と感じないし、従って無い恥じに基づいてそれを恥じと感じることも無い。

・金銭的放縦

有罪:サドは次から次へと借金を作り、それを放置し、後始末をすべて他の人間の手に押し付けた。後始末させられた妻こそが気の毒だ。

無罪:金銭的にだらしがなかったことはなるほど遺憾であるが、しかしそれが思想家としての彼の失格を明らかにするものとも考えられない。

・残虐行為

有罪:女性を罠にかけて鞭打つという行為が残虐であり、召し使いに罪を押しかぶせて官吏の手からの逃亡を図るということが残酷なのであり、彼の他人を省みない恐るべき性格の邪悪さの表現である。

無罪:召し使いに押しかぶせた罪に関しては、官吏の捕縛から逃れるための、唯一選択可能な手段であったのであり、好き好んで彼女を陥れたのではない。女性をいつわって監禁し鞭打つという行為はなるほど残酷には違いない。けれどもその後彼女を殺したという話でもない。だから要するに残虐行為としては罪ではなく、どちらかといえば性的放縦の範囲である。彼がこの事件で十何年も投獄されつづけたことは、罪刑不均衡であり、行き過ぎた処断と考えざるをえない。

・社会秩序に挑戦する著作の公表行為

有罪:社会的団結をゆるがせにする危険思想があり、サドの著作は極めつけの危険思想である。危険思想を抱いているだけならば、まだしも容赦できないわけではないが、自信たっぷりにそれを公刊するに至っては、まさしく社会的団結への挑戦行為なのであり、彼が処断されたのは当然である。

無罪:サドの著作の反社会性とは、彼が人間の主体性をラディカルに擁護した点に他ならず、そして彼が取りたてて政治哲学を考察しなかった点に他ならず、それは積極的な挑戦行為とは考えられない。サドは人間の主体性を問題にしたのであり、人間相互を結び付ける原理の考察としての政治哲学は、私たち個々の読者の課題である。サドの作品は、人間の主体性の賛美を行っているのみであり、それを超えて彼に政治哲学に関しての責任を負わせることは、妥当ではない。

みなさまのご感想をお待ちします。弁護の仕方にご意見がおありでしたら、その旨もお聞かせ下さい。

[No:284][ZAPPIE]  [98/10/24  22:39:14] [Comment Number-271] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
ichiさんの分析、拝読しました。
自分がもしサドの有罪性を分析するとなれば、基本的に、彼が他人に対して与えた悪影響、好影響という角度で考えます。
彼が他人に与えた悪影響とは、これはサディズム的残虐行為の数々と、身内・周囲の人々に与えた迷惑です。
好影響とは、小説家として、後世に与えた影響です。

彼の放蕩ぶりと、それに対して被った周囲の困惑は、否定できません。
しかし、彼の文学活動に関してですが、僕は芸術家として歴史にその名を残し、世界中の数限りない人々に影響を与えるという行為は、その人生で行われた僅かな犯罪行為を、超越するものがあると思っています。少なくとも、彼の芸術家としての影響力と、彼が人生において周囲の人々に与えた迷惑を、善悪の比率として同じ線上で比較することは無意味だと思います。ichiさんの言われる「ベートーヴェンの作曲、サドの文学を、誰も創り上げることはできない」、この言葉が全てを物語っておりますね。
また、先の書き込みでも言ったとおり、彼の文学活動は彼の犯罪行為と全く別の基盤に立った行為ではありません。つまり、サドを有罪足らしめた精神が、獄中という特種な状況によって、文学活動を通して昇華された結果、我々に価値あるサド文学が生まれたのです。
故に、彼の犯罪行為が、彼の文学の価値を劣らしめることにはならないと思います。

サドの非合法的著作、及びその残虐描写ですが、これに関して駄文は綴りますまい。
これは言論の自由の問題であって、有罪か無罪か論議すること事態、無意味です。
如何なる常軌を逸した文学であろうと、それを有罪と考えるべきではないと、自分は思います。
サドの文学を読むことによって残虐行為に走った者があるとしても、それでサドが有罪だと主張することは、先に書いたフランス革命の問題と同じぐらい、無意味なことではないでしょうか。

メディア一般論の話しになりますが、確かにメディアが犯罪に影響を与える事実はあります。しかし、メディアが人間の本質を変えることはないというのが僕の持論です。メディアに影響されて犯罪に走った者があるとすれば、それはその者に元から宿っていた犯罪性が、メディアによって表面化しただけのことで、その責任を全面的にメディアに被るのは、返って、犯罪防止の本質的な面を見失ってしまう危険性があるのではないでしょうか。
只、年令による規制のようなものは、必要だと思いますが。

余談ですが以前、この掲示板のバックナンバーでも、サド文学と神戸の少年殺人事件を関連づけて論じられたことがありました。過激な趣味や思考、娯楽、映像が氾濫し人々の精神を全面的に支配している現在のメディア社会に、我々はサド文学に如何なる接点を見出すことができるのか、これは大変興味深いものがあると思います。

サドの著作の悪影響を主張する輩にちょっとだけ付き合ってみるとすれば、実際、サド文学によって死んだ者、不幸になった者、或いは人を不幸にする者になった者が、この世にどれだけいたか。数々の戦争や争いを繰り返してきた宗教や、哲学の主義と比較してみれば、一目瞭然。
少なくとも、人間をある特定の思想、社会体制、信心で縛り付け、精神を統一することの危険性に比べれば、最終的に究極の個人主義、個の確立にたどり着くサド文学の危険性は遥に少ないと思います。
サド文学の影響はあくまでも、それをひもとく読者一人一人の主体性と理解力に負っているのであり、サド文学が犯罪に与える影響は、サド文学そのものの本質よりも、個人個人の教育過程におけるモラル形成の方に重点が置かれるべきであると思います。

半分冗談で申しあげますが、未だにサドの哲学としてのサド主義という言葉がこの世になく、「サディズム」というと、「異常性欲」の一種という、趣味・趣向を指す言葉になってしまうのは、ある意味でサド哲学の特性を象徴する面白い事実と言えるのではないでしょうか。まさに、18世紀を代表するフランス啓蒙思想のひとつに数えられるようになったサド文学は、今だ、「サド主義」という言葉を持たないのです。

「僕はサド文学を愛好し、僕なりにサドの哲学を理解する者」であり、「ichiさんはサド文学を愛好し、ichiさんなりにサドの哲学を理解する者」である訳ですね。

[No:285][Ichi]  [98/10/25  2:56:16]  
ご感想ありがとうございます。

まず、あれは賛否両論の立場になりきって書いたものですから、そういうことで私自身の意見というのはもう少し微妙な形を取っている訳です。

私の意見はこうです。悪と呼ばれているものは、自然にとっては悪ではない。なぜなら悪とは自然そのものに他ならないからです。悪が悪であるのは、理性の出現を待ってはじめてそうである事です。理性は自分と相容れないとして自然を悪であると断罪する訳です。

サドが悪を執拗に追究していく時、それは悪で無くなっていきつつあります。彼は人間のうちにあって理性にとってもっとも不可解であるところのもの、理性の秩序に従わないもの、これを真正面から見据え、そのことによって悪を乗り越えた。

サドの文学は、私たちにとって、自己分裂を解消する、それが価値であると思います。私たちは理性と自然との両重者であるがそのことが分裂であり、それが苦悩である。サドは悪を為したのではなくて悪を描き出したのであること、このことは是非理解されねばなりません。自然に無意識に引きずられて行為したのではなくて、自然を意識したのです。

なぜサドの文学に怒る人たちがあるか?悪人ならば怒りはしない、そうではなくて彼らは理性を備えているが故に怒るのです。私たちの生活が善であるとは自己欺瞞無しには信じられません。そして自己欺瞞とは意識を停止し、無意識に陥ることです。サドの明敏な意識に触れるとその人の理性は呼び覚まされる。すると無意識で解決していたはずの悪が再び現われ、自己分裂の状態に引き戻される。この体験は苦悩であり、それだからこそ、サドの文学は怒りを呼ぶのだと考えています。

−サドは宗教を攻撃しましたが、自己欺瞞のシステムとしてのそれを嫌った訳です。宗教に依存している人たちはもちろんサドを嫌わざるを得ない。サドは彼を分裂させるからです。

しかしながら悪は理解可能であり、それを理解したとき、自己分裂が止みます。自己欺瞞をして生きている人は、無意識という毛布に包まって寝ている人のようなもので、毛布を奪われはしないかと恐れている。その不安定な平衡状態を破られることはなるほど苦悩ですが、そこをクリアすると、自己は一つになる。「サドが署名をすればすべては愛となる」。

この愛は通常の愛ではありません。この愛は、すべてであり、それは自己が一つであるという充足感に他なりません。それが、通常の愛、誰か他人を愛するという愛でないことは明白です。この言葉は、レリーの金言です。

サドは欺瞞から脱していない人にとっては苦悩の宣告者であるのですが、そこを既にクリアしてしまった人にとっては、愛である。私はこのように思います。

以下は細かな事を幾つか。

サドはだらしがなかったのですが、それは彼の貴族という身分を合わせて眺めると、多少違った光の下で眺められます。ここに立っている私たちにしたところが、もし貴族に生まれていたら、端正でいられたのでしょうか。

マスメディア論をやるつもりはないので手短に述べますと、マスメディアとは、その中にそれに触れた人全てを取り込む一つのリアリティです。けれどもそれらは三日もすれば誰も覚えていない。マスメディアは人々を自分の中に取り込んでしまい、その中で「現実」を見せて暮らさせる訳ですが、それらを含めてマスメディアそのものが、無いのです。後には、瞬間瞬間を興奮で満たす衝動が残るかも知れないが、それらが満たされたとしても、私たちはこう感じています。何かが、根本的に間違っていると。それは押し潰された理性の声です。

#私は哲学を遂行している人間の独りとして主張しますが、現実は問いかけの中で見出されるのです。なぜなら明晰な意識で理解されたものが現実なのだからです。

サドの文学は、それがしっかりと読まれる限り、私たちの明晰な意識を蘇生させます。現代の過激なメディアは、正反対をむいているもののように私には思えるのです。

[No:286][ザッピー浅野]  [98/10/31  11:56:28] [Comment Number-285] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
サドにおける「悪徳」について考えてみたいと思います。

> 悪と呼ばれているものは、自然にとっては悪ではない。なぜなら悪と
> は自然そのものに他ならないからです。悪が悪であるのは、理性の出現を待ってはじめてそ
> うである事です。理性は自分と相容れないとして自然を悪であると断罪する訳です。

この点は僕も共感します。この意見は、「自然」というものを視点として考えた場合、当てはまると思います。つまり、人間にとって「悪」と呼ばれているものは、「自然」にとっては悪ではない、と。それでは、サドを視点として考えた場合はどうでしょうか。勿論、上記のichiさんの意見も、サドの思想の解釈として発言された意見なのですが、しかし、サドはその筆ではっきりと自然を悪であると断定しています。

それでは、自然と悪というものをつなげるものは何か。これは、「絶対的に存在するもの」というキーワードが重要になってくると考えます。先の書き込みで述べたように、絶対的な存在としての悪は、あいまいな存在としての美徳に対立する概念として、サド文学では扱われています。つまり、美徳とは、まさしく人間社会の理性的な基準をもってして、初めて定義される幻想であり、悪徳とは絶対的に存在するもの。この思想は紛れもなく、「自然」=「悪」という図式によって、表されています。

では何故サドは、自然は悪であると断言しなければならなかったのか。その必然性は、サドが18世紀のフランス社会において、極悪人であり、犯罪者だという烙印を押され、27年の長きにわたって獄中生活を強いられた、個人的状況に起因しています。サドは自分の行為を正当化するために、自分の犯罪性を全面的に否定し、自然の罪を厳しく断罪しなければならなかったのです。つまり平たく言うと、サドは自分の社会的罪を、自然になすり付けた、ということになるのではないでしょうか。
「そんなものは哲学ではなく、単なるエゴだ」と批判する方もおられるでしょう。しかし、それによって辿り着いたサド文学の境地を鑑みれば、サドの文学活動が単なるエゴで片付けられるものではないことが解ると思います。

ここにまさに、「サドのエゴイズム」→「普遍的な哲学性」への、極めて逆説的な昇華現象が認められます。同時に、如何なるネガティブな逆境にも屈せず、己の主体性を武器として状況に立ち向かう、強靱な「個」の確立につながる、不屈の精神を、我々は学びとることができると思います。

僕がサドの犯罪を、サド文学の価値を劣らしめるものではなく、同じ精神の産物であると考える理由は、ここにあります。
今更ながら、三島の「サドは天国への裏階段を作った」という言葉を、噛み締めずにはいられません。

そして最終的にはichiさんの言う通り、サド文学は悪を執拗に追究していった結果、悪は悪でなくなり、そこにはただ普遍的な真理が残るばかり。まさに、サドは文学によって、悪を超越したのですね。
悪徳と美徳の分裂基準に分かれた社会にあって、彼はいったん美徳の存在そのものを打ち消し、悪徳に絶対的な勝利を与えることによって、最後には純なる人間性の本質に辿り着いたのだと思います。
ここまで考えてみると、「自然」=「悪」という図式は、しょせん自然を、そして人間を理解する為の手段であったかのように思えます。
言い替えると、サドの苦難の人生そのものが、我々に価値あるサド文学を生みだす過程であったにすぎないと言えるのではないでしょうか。

[No:294][Ichi]  [98/11/5  3:9:43] [Comment Number-286] [http://www.246.ne.jp/~muse/ch/]
理性というのはそれそのものとしては抽象的な何かです。自然には秩序がありますが、そう秩序ならしめる何かが、理性です。自然における「無秩序」とは、自然そのものの秩序、しかも理性の秩序付けと相容れないそれに他ならない。これが最近の私の哲学での見解です。

まず悪徳と美徳について考えてみます。悪徳も美徳も理性を欠いた自然にすぎません。美徳とは、支配者の利益となる社会秩序の維持に役立つ作り話。悪徳とは、その社会秩序と相容れない、個人的な秩序。ただこれだけです。

私たちが、不愉快さを感じる時、それが美徳に逆らっているからという場合、私はその人は美徳に心を乗っ取られていると感じます。そうではなくて明晰でない、支離滅裂なのがけしからんと主張された場合、それは理性の声です。サドは後者の意味において不愉快さを感じる人ではなかったでしょうか。

理性にとっては、悪徳も美徳も、理性を欠いた自然、それだから不愉快な代物です。どんなに遣り繰りしても、「理性を欠いた自然」の変化にすぎず、それはあたかも回し車で遊んでいるハムスターにも似て、同じ所を巡っているばかり。Zappieさんの、美徳も悪徳のやりくりの結果に過ぎないという意味のご見解に、上の意味で私も共感します。

では自然こそが唯一・絶対なのか。サドにおいてそうなのか。ここがZappieさんと私との見解の真の相違点であると感じます(誤りでしたら済みません)。サドは明晰判明さを異常なまでに追求した人です。これは自明ですから事例をあげません。そしてその事が、サドを他の人々から区別して独創的ならしむる鍵である、そのように私は考えているのです。それを、下に説明してみます。

私は先にサドの方法を「身体感覚の明晰な認識」と述べました。これは今でも変わりません。これは形而下的な表現でした。また「自然の理性化」と述べました。これは形而上的な表現です。双方とも同じ意味を述べています。

サドが美徳という御伽噺を振り切ったとき、彼の目の前には自然だけがあったのです。それは無秩序です。なぜなら理性の手が入っていないからです。言い換えれば、明晰な意識でないからです。普通、人はこれを恐れて、美徳とか神などの神話(要するに無意識)に逃げ込むのです。私もそうでした。けれどもサドは後にも先にも不世出の天才として、これに挑戦したのです。

サドは自然を意識していきました。明晰にしていきました。そうすることによって、私たちを形而上的に引き裂くところの真の苦悩、すなわち自然と理性、言い換えれば生命意識の発生以前の世界、生命の意識世界、この二つの秩序の不調和、これを乗り越えたのです。ハムスターの回し車から抜けでて、世界そのものを見届けたのです。

私は何よりもこの点に、サドの最高の独創性があると見ています。形而下的な対象だけを、彼は認識対象に選びました。その遂行の果てに、形而上的解決を果たした。これがZappieさんの表現を借りれば、逆説的な昇華現象であると考えます。


サドの断罪は、スピノザの断罪と併せて考えてみると興味深いです。当時、神が否定され、形而上的な存在を私たちは知ってはいなかった、このことが暴露されました。この状況において、スピノザは、サドは、真正面から挑戦して、独創的な解決を行ないました。そしてその故に極悪人と化してしまいました。

サドの断罪は、彼が美徳という御伽噺をぶち壊した、そのタブー破壊に、私としては要因を見ています。社会秩序に逆らうという意味での犯罪などは時の経過、またその天才によって忘れ去られてしまうものです。タブー破壊が人々を憤激させたのであり、その他の非難は、付け足しに過ぎないのではないでしょうか。

スピノザは、従来的な形而上的神を否定し、その故に形而下学者(唯物論者)の悪人として断罪された。人々には、彼が行なった別の形而上的解決が見えなかったからです。それは余りにも独創的すぎて、理解されなかったのです。私はいまでも、彼は誤解されたままだと思います。スピノザというと汎神論者、だから要するに無神論者、これが公式です。はなはだしい無理解です。

サドも、上に見た通り、形而上的な独特の解決をしたのです。けれどもそれは美徳、神などの従来的解決(それらの虚構は既に当時暴露されていた)ではなかった。そこで、その故に形而下学者(唯物論者)の悪人として断罪された。

私は、時代状況がスピノザへの異常な断罪を生んだ経緯を、サドにも見ます。サドが復権するためにはまず、神、美徳の従来的解決の権威が、広く人々(読書を愛好するという紳士たちの意)の心から消え去らねばならず、そうなるまでは、サドは、七十の封印の書物たらざるを得ないと思っているのです。

〜スピノザ5定理15−身体の諸相をながめるものは神を愛する。より明晰にそうするほどに、彼はより神を愛する

それまでは、サドは天国にあってスピノザと席を共にして私たちを見下ろしていることでしょう。

[No:307][ちえる]  [98/11/27  22:25:10]  [http://village.infoweb.ne.jp/~cxmania/]
素敵なリンクの紹介文を作っていただきありがとうございます。

ミナサマハジメマシテ。
これからちょくちょく来たいです。よろしく。

[No:308][ザッピー]  [98/11/28  20:16:7] [Comment Number-294] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
サドにおける邪悪な自然とは、サド文学上で繰り広げられる「サド的世界」の中で展開する観念的な基本理念であると思います。

ドイツのサドの伝記作者ヴァルター・レニッヒの言葉を以下に引用します。

"サド侯爵の場合にはその生涯を、個人的な運命のあとをたどってみる
ことが、他のいかなる人物におけるよりも大切である。 (中略)彼の
作品はサドの個人的な運命の中から生まれてきたものであり、この操
作なくしては彼の作品を理解することが困難なのだから。

サドは自分のまとはずれな行為が本性の気まぐれであり、変えること
のできないもの、そして、当然治療不可能なものだからという理由で
自分が非難されることに反論した。この反論によってサドは今日も心
ある人々を動かしている判決のジレンマという問題に、あまりにも早
く触れている。確乎とした根拠もなく論証することもできない道徳と
いうようなものに正義を基づかせてよいものかどうか、という問題で
ある。

サドの悪への告白は単なる自己告白にすぎないのだが、また、同時に
人生と自由と正義を求める意志でもある。"

この文章は、自分のサド観をほぼ代弁しています。
サドの文学活動の動機とは、間違いなく彼の犯罪の正当化です。
しかし、何故サドは、その必要があったのか。
第一に、サドの欲望は、サドにとって絶対的なものであり、排除することは不可能であった。そして第二に、サドはその欲望を所有したまま、巧く社会に順応することが不可能であった。
第一の理由はそのままサドの自然の認識につながり、第二の理由が我々に教えてくれるものは、サドの不器用な人間性です。
文学史におけるサド侯爵が誕生した原因として、サドの人間関係に対する不器用さは重要なファクターであることは以前にも主張しましたが、ここでは、第一の理由に注目してみたいと思います。
自然が絶対的なものであるという結論は、サドの認識において、そうだと思えるのです。サドの不幸は、サドにとって、回避できないものであったのか。少なくとも、他の貴族や王室との社交を拒絶していたサドにとっては、それが出来なかった。一生彼は、社会に迫害され、不遇の人生を送らねばならなかった。
サド文学にある「自然=悪」という図式は、彼の人生を不幸に貶めた大悪党として、自然を告発する必然性が導きだしたものであり、その自然の内包する小悪党として、人間性(社会、法律、国家、宗教)を攻撃したのだと思います。
こうして始まったサドの究極の文学活動は、自然に対して盲目的に生きる文明人を、人間性の根源的な部分にまで裸にしてしまった。サドの小説を読んで奮起する人々は、ここに自分たち人間存在の最も醜くさらけだされた側面を見せられるからであると思います。まさに、タブーの破壊ですね。
そして、自然の罪を徹底的に暴いた結果、最終的に、宗教や社会の基準が作り上げた美徳や悪徳などの概念を超越するに到ったのです。
ここに、以前僕が発言した、サドが最も他の文学者と比べて秀でていたもの、「創作者としてのパワーとエネルギー」が浮上してきます。僕がサドに天才的な資質を見出すとしたら、この点をおいて他にありません。

サドの文学が、現実に対して直接訴えかけるメッセージ性をもった既成の芸術と違い、あくまでもその文学の中での「サド的世界」とも言えるべき閉鎖的なイデオロギーとして存在していることは、見逃せないポイントです。
例えば、サド文学のメッセージ性をストレートに受けとるならば「悪徳を犯すべし」ということになってしまいます。
サドはその想像力によって、邪悪なる自然の絶対的な法則の支配下におかれたファンタジーを作り上げ、そこに、人間性の本質を究極の形で象徴する体系を表したと言えるのではないでしょうか。

[No:309][ザッピー]  [98/11/28  20:17:11] [Comment Number-307] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
どうも、ちえるさん、書きこみありがとう。
いつでも、気軽に遊びに来てくださいね。
サディズムや本について、率直な意見、質問なども、お待ちしております。

今後とも、よろしく。

[No:310][Ichi]  [98/11/29  17:38:40] [Comment Number-308] [http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/3403/]
サドの動機と、彼の思想の内容とは、区別すべきであるという意見です。

サドはなるほど個人的な動機に動かされています。しかし人間ならば、誰でもそうです。動機は全て個人的です。要するに、成し遂げた仕事が、どれだけ普遍的な真実を得ているか、そこにつきると思います。

しかし、私は、情熱と道徳の葛藤は、けして個人的な動機であるばかりではないと見ています。それはサドにとっては私事であるかも知れません。ですが、誰の心にも、その葛藤があるのです。その葛藤をサドが乗り越えた、それが万人の心を引き裂く葛藤の解決である、それが、「私事を通じて普遍的な真理へ」と表現できます。


私が少々観念的に考えてきたのは、何故サドが悪を描いたか、その根底にある何かです。観念的なことは別としても、私たちは、幽霊は見つめないとますます怖いものとなる事実を認めています。サドにとっては、人間性の激しさは、また恐怖の対象であったかも知れません。これは常人もサドと異ならない。違うのは、彼がそれを見つめて、それを取り込んだことです。もし天才性を認識であると理解する立場があり、そしてそれが私の立場なのですから、そこで私としてはサドの天才性をそこに見る他ありません。彼は誰も認識できなかったことを認識した、それだから不世出である。

視野を一段と広く取るならば、人間という生命現象が、そもそも意志です。その意志は、想像力によって引き起こされます。私たちを取り巻く人間世界は一万年前には無かった。想像力が作り出した世界です。サドは知性の道を歩んだ。想像の世界に生きることを選んだ。これは現実逃避であるが、一つの自己実現の在り方です。英雄という別の道があり、彼らは想像力の作り上げる映像に、現実を適合させる。ナポレオンは精神的には気違いであると私は思うのですが、しかし彼には妄想を実現する手腕があったから、彼は英雄である。人間という存在は、想像の世界に大きく踏み出しています。文明とは、その想像の産物です。サドは、英雄の道、それと「なる」のを選ぶことなく、それで「ある」ほうを選んだ。これは回し車からの脱出なのです。


サドは知性であり、英雄ではありません。ですから彼の悪の物語をもって彼を悪行の主として断罪するのはおかしなことです。人は、「なるほど悪の行為は犯してないかも知れない、しかし悪人の心を知り尽くすのは、やはりそれを描き出した人間の魂の腐敗を表示する」と反論する。しかし文学活動というものが、それに「なる」ことをやめて、それで「ある」に飛躍を遂げることです。全てそうです。だからモリエールはドンジュアンという悪人(通常の見方では)を見事に描き出しているし、シェイクスピアは陰謀と暗殺の連続です。人間の在り方、生き方そのものにおいて、サドは、知性です。それは認識し、創造する。サドは自らの欲望を文学活動に昇華させたのだ、と人々が述べるとき、それはおそらくこんな意味では無いでしょうか。

これは最初に述べた「サドの動機と、彼の思想の内容とは、区別すべきである」と矛盾しません。サドの個人的動機が、みんなの葛藤の解決に連なること。サドの動機の昇華として文学活動があること。これらと、彼の作品世界、彼の思想とは別々に取り扱われることができる。文学活動を為した、その行為は彼の動機で説明されます。ですが彼の文学世界、思想、これはあくまでも、それだけで、独立してあるものです。なぜなら思想とか作品世界というものは普遍的であり、私たちのような現実的存在者とは普遍度が異なるのですから、相互に接続させても意味が無い。サドも確か言っていました。「私は思想家とともにありたいのでなく、思想とともにありたいのだ(「文学的覚書」から)」。

#引用は記憶に頼っているので、正確ではないかもしれませんが、原意は損なっていません。


サドは、当時の愚かなキリスト教道徳と不適合を起こした。しかし彼はそれでますます自己確信を固めていった。彼には素晴らしく自由な物の見方があり、彼は肉体をつながれたかも知れないが、彼の精神は誰もつなげなかった。私としては、サドから受け取れる激励を、ここに見出しています。

[No:311][ザッピー]  [98/12/7  1:58:32] [Comment Number-310] [http://www.jah.ne.jp/~piza/]
こんにちは、お久しぶりです。

> サドの動機と、彼の思想の内容とは、区別すべきである

とichiさんはおっしゃいます。確かに、動機が何であれ、最終的にその思想そのものに価値があるわけで、動機によって、その思想の価値が変わったりするものではありません。

自分も決して、サドの動機を知らなければ彼の思想を理解することはできないなどと主張しているわけではないので、そういう点では、純粋にサドの思想を議論しようとしていたichiさんに余計な茶々をいれてしまったようで、反省しております。
ただ、サドの思想を理解する上で、サドの人生背景を知ることは、ある程度助けになることは確かだと思います。こういう体質の思想をもった作家は、自分の見識が狭いからかもしれませんが、サド以外には珍しいのではないでしょうか。

サドの人間的背景を排除し、サド文学を単独でひもといた場合、インパクトという点では、申し分のないものがあると思います。「ジュスティーヌ」「悪徳の栄え」の代表作を読んでそのパワーに圧倒されないものはいないでしょう。

それでは、更に深く彼の思想体系をそこから研究していこうとする場合はどうであるか? ここに、サドの人生背景を知ることの意味が生まれてくると思います。彼が如何なる状況下で、これらの作品を生みだす境地に到ったか、又、こんな凄まじい作品を生みだすパワーは、いったい何処からきたのか。思想的にサド文学を探求しようと思わなくとも、サド文学の読者であれば、大いに興味の湧いてくる問題でありましょう。

サドの思想は究極的な逆説的表現に満ちているので、このパラドックスを説き明かすキーワードとして、サドのエゴイズムが有効ではないか、というのが自分の考えです。

> サドはなるほど個人的な動機に動かされています。しかし人間ならば、
> 誰でもそうです。動機は全て個人的です。要するに、成し遂げた仕事が、
> どれだけ普遍的な真実を得ているか、そこにつきると思います。

如何なる哲学思想も、人間の作ったものである以上、多かれ少なかれ、個人的動機に起因している、これは否定しません。
しかし、サドの場合は特に、この点が重要であると思うのです。「何よりも個人的なもの」から「何よりも普遍的なもの」へ。これこそ、サドがサドたる所以ではないでしょうか。
人間は自然の産物であるから、その内面を深く掘り下げていった結果、自然に辿り着くことは道理です。又、自然を理解することは、真の人間性を理解することにつながることも、普遍的な真理です。人間の作った社会や法律、宗教を、すべてこの視点でばっさりと切ってみせたのはサド最大のオリジナリティです。
個人的動機は同じでも、そこから社会へ、国家へ、世界へ、そして普遍的な人間性の真理へ、と向かってゆくのがありきたりの哲学の道筋であると思います。サドも表面的にはその典型を辿っているように見ますが(彼は世界中の異る文化や習慣、民族に興味を抱き、それを哲学の論拠に取り入れている)、本質的に、サド文学のなかで最も普遍的な人間性の真理に辿り着いた部分は、彼のエゴイズムの果てにあった、閉鎖的なサド的宇宙のイデオロギーだったと思うのです。

> 観念的なことは別としても、私たちは、幽霊は見つめない
> とますます怖いものとなる事実を認めています。サドにとっては、
> 人間性の激しさは、また恐怖の対象であったかも知れません。
> これは常人もサドと異ならない。違うのは、彼がそれを見つめて、
> それを取り込んだことです。(中略)彼は誰も認識できなかった
> ことを認識した、それだから不世出である。

僕のサド観とichiさんのサド観の最も対立する点であり、また同時に共鳴している点が、この辺にあるような気がしてなりんせん。ichiさんはサドの天才性が、「普遍を見取る認識」にあると言われます。自分のサド観がこの考えにどのように反し、また通じるのかは、実はよく解らないのですが、自分のサド観を似た様な言葉で表現するならば、「誰もがその社会的な理性によって踏みとどまるところを、極限的なエゴイズムによって押し進め切り開いていった」のがサドということになります。

もちろん、サド文学単独で彼の思想を追究することも、大いに可能です。逆にサド文学は、他の18世紀の哲学小説と比べると、その究極さにおいて、最も明確であるとも考えられます。
「悪徳の栄え」のリベルタン達の過激な発言の一部をそのままの意味にとらない限り、サドの目指した境地を、見誤ることはないでしょう。


ここからは余談ですが、自分がついでに主張したいのは、僕が親しみ、又、歴史的に人々に知られる「サド侯爵」とは、彼の文学作品だけでなく、その人生・人間像(伝記・書簡など)とあわせてワンセットであるということです。
思想的なものは抜きにして、純粋なサドの読者として考えれば、サドの作品と同等か、あるいはそれ以上に、サドの書簡集や伝記は必読のものではないでしょうか。少なくともヴォルテールの作品のファンが、ヴォルテールの伝記や書簡集を読む以上に、サドの場合はその必然性があるという気がします。
かつて僕のフランス人の友人は、本国ではサドはその作品よりも、書簡集の方が有名だ、と言っておりました。自分も、サドの書簡集は、サドの傑作のひとつであると思っています。
また、自分が決定的にサド侯爵に傾倒するきっかけになったのは、渋澤氏の「サド侯爵の生涯」であったことも、付け加えておきましょう。

[No:312][Ichi]  [98/12/13  0:17:41]  
こちらこそ、お久しぶりです。

サドは、個人としてもありますが、また同時に、作品としても存在します。オリジナルのサドは、後者に、より判明に現われています。

個別的なものの集まりは、普遍的ではありません。全てからの剽窃を許されても、私たちには、「ジュリエット」の書けない所以です。

天才とは、存在の昇華の奇跡です。サドの場合、衝動の昇華、「種」の保存を目指す意志の、個体の内における自己表現、あるいは、「種」と個体との一致です。

衝動は、低次の個別的な現われにおいては、個体を没却するから悪であるが、高次の現われでは、個体と一つになります。現実から派生したジュスティーヌ(における衝動の相克)は、天才の奇跡によって、ジュリエット(超人)に昇華します。このとき、「サドがその名を記したとき、すべては愛となった」のです。

サドを愛する人は、衝動の悪を感じ取るほどに、個性としての自己理解に達した人なのでしょう。彼らは、衝動の昇華を必要としている、でないと、ショーペンハウエル流の倒錯した自己否認、あるいは権力を志向する残虐性に陥ります。サドとともに、私たちは昇華していき、私たちは、ともに「愛」となる。それが、サド文学の効用であると思っています。

サド文学は一見すると悪であるが、実は、衝動の昇華なのであり、衝動からの離脱なのです。衝動は個体を没却する意志であるが、サド文学は、この「回し車(はてしない相克です)」からの離脱、自由への階段に他なりません。

Zappieさんは、サドはエゴイズムの極限であるとお考えですが、極限には、エゴイズムはなく、種と個体との一致だけがあります。また、人々は理性で踏みとどまるのでなく、彼らが天才でないということ、つまり、存在の昇華の奇跡を起こす術をもつべくもない、結果、相克の段階に止まらざるを得ません。

私は、「作家とともにありたいのではな」い訳でもないのですが、なによりも、「作品とともにありたい」と思っていて、それは、作品こそが、オリジナルであるからです。真の天才の手になる真の文学ならば、みなそうです。モリエールのアルセストは、あるいはジュリエットは、現実の誰にも似ていないが、彼は、オリジナルです。我々は、彼の真実さに比べれば、まるで、影です。サド個人さえも、影です。これは、「プラトンの洞窟」です。影であり影だけを見慣れた人が、アルセストを架空とみなしたり、あるいは、サド文学を個別的な水準に下ろしてしまい、「種」と個体の一致、レリー的愛から、衝動の相克、悪に、私の意見では「堕落」させてしまい得ます。

サドの文学は、「人間」の表現だけを一直線に目指していて、そこで、ストーリーの変転に刺激されるスリルという点からは退屈かもしれないが、しかし、極度なまでに真実です。「人間」の表現、存在の普遍的昇華だけが、サドの文学的志であり、その故に、彼は、際立って、天才的です。山のような非難に埋もれていても、普遍は普遍であるのだから、その価値は、一目で分かる訳です。

#しかし、サド文学は、現実の人間の写実ではないと言われると思いますが、その通りで、シェイクスピアもモリエールもアイスキュロスもエウリピデスも、写実はしていません。個別の寄せ集めから普遍へと、存在を昇華させる秘術を、彼らは、天才の特権として行使した訳です。サドも、同様です。


[No:320][久保AB-ST元宏]  [99/1/28  1:19:4]  [http://www.hamanasu.or.jp/numata/numata.htm]
私は、米屋。
1998年12月に、お歳暮として、1KGの米を、
客にくばった。

わが社の最初の屋号は、丸の中に「キ」。
つまり、「マルキ」。

お歳暮の米は、「新潟県佐渡」のコシヒカリを使いました。

・・・そう、「Marquis De Sade」!
袋に、大きく「Marquis De Sade」と、印刷した。
そして、1,000袋、くばった。
でも、だれも、気づかなかった。

くわしくは、私のHPへ・・・

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